2、「孫子はなぜ活用できないのか」のご質問に答えて
孫子の活用について度々、次のような趣旨のご質問が寄せられます。
『孫子兵法って何』、『どうやって身につけるの』、『できれば自分も日常生活やビジネスに活用して巧くやって行きたい』… 、その参考にと書店で孫子の本を買って読んで見たりするのですが…、なるほど、孫子の名言名句をアレンジしての軍事や歴史のエピソードは確かに面白い。が、それはただそれだけのことで、肝心の自分のことにどう結びつくのか、今ひとつ実感が涌かない、繋がらない、何かピンとこない、まさに隔靴掻痒の感が否めない、と。
この問題は、ことが兵法という特殊性(単なる妄想ではなく厳しい現実世界の認識に関わる意)ゆえに実に広範かつ複雑な論点を含んでおります。その一つひとつに言及すると際限がないので、ここでは『兵法に関わる大いなる誤解』という角度から検証します。
(1)孫子は単なる知識の勉強ではなく不確実な将来(未知)への対処の法である。
かつてフランスのシャルル・ド・ゴールは「戦争の本質は偶然性にある」と喝破しております。人生もまた戦争と同じく不確実であることは論を俟ちません。つまり、この宇宙にはギリシャ哲学で言う「万物流転」、あるいは釈迦の曰う『無常(全ての現象は生じて滅するものであり変化しないものは無い)』の法則があてはまるゆえに人間の現実世界もまた意外性・偶然性・不確実性に満ち溢れているのであります。
そのゆえに、いわゆる知性(アタマ)だけをもって生身の人間の問題を解決しようとしても、どうしても行き詰まらざるを得ないのです。逆に言えば、兵法とは、現実問題に際会したとき、その事実を冷徹に直視し、自分で答えを見出すこと、言い換えれば、枝葉としての「能力」ではなく、その根幹・土台としての「脳力」を発揮することである、と言えます。
『敵、衆にして整い将に来たらんとす。之を待つこと若何』<第十二篇 九地>とはまさにそのこと示唆するものであります。つまり現実世界では、例えば学校教育のごとく、初めから答えがあって、その答えを暗記させ、それによって試験問題を解けば満点というスタイルは極めて希なのであり、その殆どは答えの分らないもの、つまり『将に来たらん』とする「将来」に関わるものであり、これにいかに対処するかが兵法の本質であると曰うのです。
つまり孫子兵法とは、答えを丸暗記すれば満点が取れる、いわゆる知識教育の問題ではなく、まさに「現実変革」の思想を学ぶ問題なのです。
もとより、知性を無視して良い、というわけではありません。知性は、未知なる将来に対処するには不十分な力しか発揮できないという意味であり、現実的にものをいうのは、いわゆる胆力や信念、勇気や決断力などの「総合的な人間力」、言わば『脳力』であるということであります。
要するに、IQ、もしくは偏差値だけでは生き残れないという訳です。
その『(能力ならぬ)脳力』が適切に発揮されるためには、既に判明している様々な資料を検討する知性が不可欠な要素であることは論を俟ちません。これが知性(能力)と脳力の関係であります。
かつてのサムライ達がそうであったように、兵法を体得するためには少なくとも、偏差値優先的教育の対極にある人間学、即ち人間づくりに資するという意味での「学問の道」と、娯楽・レジャーたるスポーツの対極にある武術、即ち戦いの雛形を学ぶという意味での「武術の道」、言い換えれば、本来の意たる文武両道がその基本にあるという思想は、古来、洋の東西を問わず人間の共通認識であります。
(2)孫子を学ぶには「脱・日常的思考」が大前提である。
そもそも兵法は生々流転する事象たる現実に向き合うものゆえに、兵法を学ぶには、自ずから惰性に陥り易い日常的な思考パターン、もしくは頑迷固陋な固定的思考癖を脱する必要があります。今、流行の言葉で言えば「脱・日常的思考」もしくは「脱・固定観念的思考」ということになります。
とは言え、山に籠って俗世間と離れる可し、というのでありません。そもそも、兵法とはそうゆうものだという意識の、いわゆるコペルニクス的転回が必要であるということです。
そもそも兵法は厳しい現実のことであり、「明日があるさ…」式の能天気な日常的思考パターンで論ずべきものではありません。言い換えれば、兵法を論ずる者が、(まさかそんなことは無いでしょうが…)自身は暖かい部屋のぬくぬくしたコタツに入りながら、窓の向こうの凍てつく厳寒の雪景色(即ち厳しい現実の姿)に思いを致し、あたかもそこに居るかのごとくあれこれ試みているとしたら…、所詮それは適わぬ夢、妄想の類に過ぎず、兵法とは似て非なるもの、と言わざるを得ません。
(3)兵法を学ぶ真の目的は何か
言わずもがなのことでありますが、兵法の最大の敵は欲望の塊りたる己自身に他なりません。彼の山鹿素行は「兵法の奥義は己に克つにあり」と喝破しております。儒教で曰う「克己」、葉隠れで曰う「死ぬことと見つけたり」もまさに同趣旨の言であることは論を俟ちません。
然るに、一般的には、兵法を何か相手を出し抜くためのマニュアルのごとくに心得て、自身を何も行動しないで済む安全なところにおいて、何やら頭の中だけで彼の曹操や諸葛孔明を気取っているのは実に滑稽であり漫画的であります。
そんな人に限って、(その言い訳や偽装的ポーズはともあれ)最大の敵たる自己との戦いには目を背け、逃避してるものなのです。一般的に言えば、真に兵法を追究している人は、(自分の弱さが分っているがゆえに)そのような傲慢不遜な態度や、己を飾ろうとする軽薄なポーズはとりません。
兵法を学ぶということは、言わば「自己革命」を学ぶことであります。例えば、ついこの間までの自民党政治がいかに国民目線とズレていたか、(まなじりを決して日本国再建に取り組んでいる)今の民主党政治の立場から見れば、一目瞭然のごとしです。革命とはつまりそうゆうものなです。
千変万化する世の事象に常に関心を持ち、お仕着せの答えに疑問を抱き、自分の頭で考え、判断し、行動すること、まさにそれが孫子を学ぶ意義であります。
そのような観点に初めから理解があれば、彼の小泉・竹中構造改革などに易々と騙されることは無かったであろうと断言できます。そもそも、例えば徳川将軍が鎮座する幕藩体制をそのままにして、いかに改革を声高に叫ぼうが所詮はコップの中の手品的改革に過ぎないとは普通の頭で考えれば自明のことであります。
彼の小泉劇場の一事を想起し、民主党政権の誕生以前と以後とを比較し、真の改革とは何か、翻(ひるがえ)って自己革命とは何かを重ね合わせ、その意識の変化に我々は思いを致すべきです。
孫子を学ぶということはつまりそのような観点から流転変動する現実世界を洞察することであり、そのゆえにこそ判断主体たる己の自己革命を持続することが肝要なのです。彼の宮本武蔵は「常に兵法の道をはなれず」と。
とは言え、偏差値優先的ないわゆる知識の詰め込み教育が一世を風靡する今日、一般的に人は、自己の内面に思いを致す能力に欠けている傾向が強いようです。
極論すれば、(実に信じられないことですが)自分の人間としての人格完成は既に所与のものであると本気で考えているのです。そのゆえにこそ、もし自分に不足しているものがあるとすれば、それは世間を上手く立ち回るテクニックたる世渡り的な能力である、という結論に至るのです。
なぜそう断言できるのかと言えば、例えば、そのような人のいわゆる専門バカ的な局面を指摘して「貴方はバカだ」と直言すると、返って来る答えは概ね似ています。
曰く、『僕はバカではない。なぜなら僕は昔から学校の成績が良くて、親からは一度もバカなどと言われたことが無い。第一、僕は一流大学を出ていますよ』と。
確かに、この人は、その意味でのバカではない。が、しかし、人間として最も重要な要素たる謙虚さ、素直さに欠けているということに思いが至らないのです。このようなタイプがいくら上辺のテクニックを磨いても(その意味での基本ができていないゆえに)所詮は付け焼刃のままで終らざるを得ないと言わざるを得ません。
(4)他人がいくら説得しても当人が納得しなければ人の意識は変わらない。
孫子塾で主催する隔週の通学講座(一授業3時間余)では、孫子兵法の本論に入る前に、脳力開発的な観点を中心に、ほぼ一年を費やしてこの意識のコペルニクス的転回を図っております(熱心な受講生の方が私の一字一句を記録しておられましたのでその蓄積分量は相当数に上ります)。これは初めらそのように意図した訳ではなく、本論に入るために不可欠な土台部分を説明している中に、結果的にそれだけの時間が掛かってしまったいうことです。
なぜそこまでする必要があるのかと言えば、人を教育するには、まず学ぶ者の意識を感化し、いわゆるヤル気にさせてから教えるとその後の講義が入り易くなるからに他なりません。とは言え、人の意識を変えるということは、例えば上記のごとく実に根気とエネルギーと時間がかかるものなのです。
このことを逆に言えば、孫子を講ずる教師の説得力(熱血度合い)は果たして本物か否か、ということが問題となります。なぜならば、孫子を教える側の教師自身が(売らんかなの商売としてでなく)真に孫子に感動し、(ことの広狭大小を問わずそれなりに)これを活用することの意義を見出し、そのことを真に面白いと感じていなければ、教わる側の立場の者が、これに感動し感化されヤル気を起すわけが無いからであります。
(5)まとめ
『五事』ならぬ、上記の四つのモノサシでいわゆる『廟算』<第一篇 計>すれば、次のように総括することができます。
即ち、書店の書棚に溢れる(売らんかなの)いわゆる孫子本を金科玉条のごくと崇め奉っても、ひと時の気休め的な効果しかない、益してや、孫子を日常生活やビジネスに応用したり、自らの問題解決に活用したりすることは(そのような方法では)論理的に不可能である、と。
とは言え、世の中にはいわゆる『プラシーボ(偽薬)効果』なるものもありますから、それで満足してるのであれば、それはそれで他人が口を出す問題ではありません。
肝心なことは、いやしくも孫子兵法を学ぼうと志す者は、(他人のことはどうあれ)掛け替えの無い自分自身の人生をいわゆる「お任せ思考」で酔生夢死の如くに過ごすことは断固忌避する、という姿勢を鮮明にすることだと考えます。
※【孫子正解】シリーズ第1回出版のご案内
このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として下記のタイトルで電子書籍を出版いたしました。
興味と関心のある方はお立ち寄りください。
※お知らせ
孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、次の講座を用意しております。
※併設 拓心観道場「古伝空手・琉球古武術」のご案内
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
古伝空手・琉球古武術は、日本で一般的な、いわゆる力比べ的なスポーツ空手とは似て非なる琉球古伝の真正の「武術」ゆえに誰でも年齢の如何(いかん)を問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものであります。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。
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