4、危うきかな日本 ~尖閣ビデオ流出行為は非国民かヒーローか~
一、世論操作を事とするマスコミ情報を鵜呑みにするのは日本人の悪い癖である
近頃、都で流行(はや)るものは、「世論調査ではこうだ」「内閣支持率急落、危険水域に入る」などと居丈高に政権を難詰するワイドショーの司会者やコメンテーターのまさに「世論操作」を意図するがごときの単純かつ浅薄な言い切り型コメントである。
そもそもワイドショーの一分一秒は莫大な金額に相当するものゆえに、その種のテレビ番組においては、内容をキチンと解説する丁寧なやり方や時間の掛かるコメントは疎(うと)まれこそすれ決して求められるものではない。
結果として、中味が無くても視聴者を惹き付けるセンセーショナルな言い回しや、ワンセンテンスの単純な言い切り型コメントが好んで発信されるのである。あたかも「臭い物に蝿がたかる」かのごとく、そのようなコメントを得意とする人がワイドショウに求められ重宝されるのである。
因みに、ワンワード・ワンフレーズ居士たる彼の小泉元総理、その子息である自民党の小泉進次郎議員などはその典型例である。瓜二つとはまさにこのことである。が、しかし、善く考えてみよう。娯楽・レジャーの類たるタレントやスポーツ選手の言動ならば(ことの性質上)人畜無害であろうが、いやしくも国会議員たるの任務は国民の死生、国家存亡に直結するものゆえに、その言動がタレントやスポーツ選手と同レベルのもので善いのであろうか。善いはずが無い。
孫子の『善く戦う者の勝つや、奇勝なく智名なく、勇功も無し』<第四篇 形>とはまさにその意である。役者や芸人ではあるまいし「大向こうのウケを狙い、拍手喝采を浴びよう」などの浅ましくも卑しい言動は国会議員たる者の採るべき道ではない。
ともあれ、我々はこのような無意味なコメントが垂れ流される低俗なテレビ番組によって常にマインドコントロールされているのである。IT世界の進化とともにかつての情報の王様たるテレビの凋落的傾向は覆うべくも無いが、そこは「腐っても鯛」、とりわけまやかしを以てするテレビの世論操作的なパワーは未だ健在なのである。
ゆえに、我々は、確かな事実に基づかないものは信じないという知性的かつ主体的な姿勢を堅持し、自分の頭でものを考え、自分の頭で判断するという習慣づくりが肝要なのである。それによってのみ、まさに「マッチポンプ」あるいは「オオカミ少年」的なマスコミの怪しい言説を見破り、無意識的にマインドコントロールされるという忌まわしい呪縛から逃れることができるのである。吾人が、孫子兵法と脳力開発を学ぶ所以(ゆえん)である。
二、尖閣事件を法律問題に矮小化して論ずることは平和ボケの典型例である
戦後、日本民族は戦勝国たるアメリカ占領軍による3エス政策(スポーツ・セックス・アメリカ映画をもって日本人の精神性を堕落・軟弱化させようとする占領政策)によってスッカリ大和魂を抜かれてしまい、かつ半世紀余に亘る平和ボケとの相乗効果も相俟って、今日、日本民族は名実ともにアメリカの属国民に成り下がっているやに見受けられ。
戦前、東アジアを席巻し日の出の勢いの日本人は中国人をチャンコロ、朝鮮人を二等国民などと蔑称して優越感に浸っていたが、半世紀を経た今日、今やその日本人そのものが(とりわけ精神的な意味での)二等国民、三等国民に没落したということである。
言い換えれば、独立国の証たる「戦いの論理」、命を懸けての「国防の気概」を亡失したがゆえに、今日、中国やロシア、北朝鮮・韓国からの(軍事的圧力を背景にした)無理無体な注文に涙を呑んで屈せざるを得ない状況に陥ったのである。
いわゆる独立国たるの総合的国力、とりわけ国民の国防意識・軍事力・政治力・外交力という側面において、今日、日本の国力は想像以上に劣化・弱体化していると言わざるを得ない。(経済力や文化力はともあれ)その意味での日本は、まさに東アジアの小国に成り下ったのであり、おこがましくてアジアのリーダーなどと言えるべくも無い。
孫子の曰う『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』<第一篇 計>とはまさに今日の日本のごとき状況に陥ることを戒める言なのであり、戦争をするとか、しないとか、軍備は有用とか、無用とかの議論以前の問題であることを我々は強く認識すべきなのである。
ロシアのメドヴェージェフ大統領が我が国固有の領土たる国後島に平然と上陸して、「ロシアが実効支配している以上、ロシアの領土だ。訪問して何が悪い」と嘯(うそぶ)きニヤニヤ笑っている映像を見れば、(通常の日本人ならば)上記の孫子の言が骨身に沁みるであろう。
例えば、彼のフォークランド紛争を見るまでも無く、今日もなお、国家間の紛争は軍事力による武力対決なのであり、その意味での国際社会の実体はまさに強者の権力(人を支配し服従させる力)のみが弱者を支配する無法地帯なのである。
言い換えれば、弱肉強食・優勝劣敗の掟は孫子の時代はもとよりのこと、今日もなお、国際社会を普遍的に通徹する理(ことわり)ゆえに、我が国における尖閣諸島もまた第二のフォークランド諸島と化す恐れが多分にあるのである。
もとより、そのような万古不易の掟について知らぬ者はいない。しかし、それはあくまでも知識レベルでの理解であり、ことが台湾に近い先島諸島の洋上のことゆえ、例えばかつての「泰平の眠りを覚ます黒船」のごときの恐怖と衝撃を伴う切迫した実感として受け止められたものとは言い難い。
とりわけ、平和ボケしたこの国のマスコミにはその傾向が強く、この国難が単に視聴率を稼ぐための絶好の報道ネタとしてしか映っていなかったようである。その何よりの証左が、例えば、テレビのワイドショウなどで検察OB、いわゆる「ヤメ検弁護士」をコメンテーターとして起用し、この尖閣事件のあれこれを論じさせていることである。
昨今、テレビの寵児と化した感のある「ヤメ検弁護士」達は、嬉々として法律論を展開しているが、彼らが得々として論ずれば論ずるほど、今日の日本の抱える病巣たる本質問題は益々覆い隠されて矮小化し、まさに針の穴を通すがごとき枝葉末節論が世の人々の判断を迷わせていることに気が付かないのである。
マスコミ報道の常套手段は、何かと言えばすぐに「その道の専門家」を登場させてその見解を求め、あたかもそれが自己の立場であるかのごとく装うことであるが、いわゆる平時の場合はそれでこと足りるであろう。
が、しかし、尖閣事件の場合は、その意味での平時ではない。そのゆえに「ヤメ検弁護士」のコメンテーター起用はまさに「お門違い」と言うものである。
そもそも国際紛争を法律的次元で論じようとするその感覚が余りにも平和ボケしてトンチンカンであることに気が付かないのである。例えば、テロによる殺人が日常茶飯事化しているイラクやアフガンで「殺人罪は死刑だ。裁判所に訴えてやる!」と騒ぎ立てるようなものである。
そもそも権力のみが支配する無法地帯では「勝てば官軍、敗ければ賊軍」であり、勝者が正義、敗者は不正義であるゆえに、通常の意味での法律など通用しない。そのようなもので国際紛争が解決するなら疾(と)うの昔に世界平和は実現されているはずである。
事の事情はいわゆる交通戦争においても同じである。自分が法律を守ってさえいれば交通事故には巻き込まれない、などという保障はどこにも無い。そもそも交通事故が起きるゆえに法律が制定されるのであり、法律があるからといって交通事故が無くなるわけではない。法律があろうが無かろうが自分の身は自分で守る、まさにそれこそが兵法の兵法たる所以(ゆえん)である。
尤も、交通戦争の場合、事故発生後はもとより法律の出番であるが、肝心の当人が死亡したり、再起不能になったのでは(当人から見れば)何の足しにもならない。孫子の『亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。』<第十二篇 火攻>とはまさにこの意であり、ゆえに『明主は之を慎み、良将は之を警(いまし)む。』と曰うのである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。
三、兵法的思考と法律的思考は本質的に異なるものゆえに混同してはならない
そもそも強者の権力(人を支配し服従させる力)のみが支配する国家間の紛争においては、いわゆる法律的思考は何の力も持たない。法律はその国の政治権力が安定し、かつその統治権が及ぶ範囲でのみ有効なのである。
試しに、ヤメ検弁護士達は船をチャーターして国後島に乗り込み「ロシアは北方領土を不法占拠している。違法であるから即座に退去すべし。ダメなら裁判所に訴える」と主張してみたら良い。子供の戯言(ざれごと)か、老人の世迷言(よまいごと)として無視されるか、はたまた問答無用とばかり彼らの論理での領海侵犯罪で銃撃されるかがオチである。
ことは「竹島」の場合も同様である。「尖閣事件」の場合は(中国が実効支配しているわけでないので)やや事情は異なるが、力関係が支配する無法地帯、という側面ににおいてはその本質は同じである。
このような無法地帯で通用するのは、「どの方向に進むのか」という日本の意志と行動力であって法律的思考の次元ではない。かつて命を懸けて国難に立ち向かった彼の幕末志士達の事跡を想起すれば論ずるまでもないことである。
まさに「口で言うより行うこと」が志士の志士たる所以(ゆえん)なのである。孫子兵法の研究者として夙(つと)に知られた彼の吉田松陰を引くまでも無く、「兵法的思考」こそが国難の際にはものを曰うのである。
孫子の曰う『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』<第一篇 計>の真意はまさにそこにある。パワーが支配する兵法的世界にあって口先だけの議論が何の役に立つと言うのであろうか。吾人が孫子兵法を学ぶ所以(ゆえん)である。
四、優れたリーダーの枯渇・欠乏は国家の最大の不幸である
しかし問題は、かつて(武士道教育の余光たる)有為の人材が雲の如くに輩出した幕末・明治の時代と異なり、平和ボケした今日の日本は、まさにリーダーたる優れた人材の枯渇・欠乏状態に陥っている。そのゆえに、国家としての意志(国防意識)と行動力(軍事力・政治力・外交力)が極めて弱体化しているということである。
もとよりこれは一朝一夕に形成されたものでなく、この半世紀余の日本国民の意識と行動の当然の帰結として招来されたものである。現代版「黒船襲来」とでも言うべき尖閣事件において、朝野を問わず右往左往するだけで独立国たるの気概と信念の一欠けらも示せなかったのは、まさに宜なるかな、である。
ともあれ、ことの本質は「なぜ中国人船長を釈放したのか」とか、「日本の法律に従って粛々と裁くべきであった」とか、「船長釈放のバランス上、ビデオ流出の海上保安官の罪を問うのはおかしい。悪いのは公開すべき情報を隠した政府の方だ」などという「ミソとクソを一緒にした」ような法律論で片付ける問題ではない。
言い換えれば、戦後、半世紀余の間、日本をこのような状況に陥れた原因は何処にあったのかを我々は真摯に懺悔すべきなのである。因みに、懺悔と後悔は似て非なるものである。後悔は過去のことをあれこれと悔やみ繰言を呟く非生産的な行為であるが、懺悔は自己の失敗に対して逃げ隠れせずその敗因を洗いざらいに曝け出して真摯に分析し、次の勝利に結びつける縁(よすが)とする建設的な行為である。
孫子の曰う『故に兵は、彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』<第三篇 謀攻>の本質はまさにこの懺悔にある。「懺悔もできない人間がどうして敵に勝つことがでるのか、できはしない。なぜならば真の問題点の何たるかを把握できないからである」と孫子は曰いたいのである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。
言い換えれば、他人事のように政権批判の大合唱を繰返すワイドショーの司会者やコメンテーター諸氏は、仮に尖閣事件が第二のフォークランド紛争と化した場合、自らが最前線に立ち命を的に戦う覚悟があるのか、という問題なのである。
「然り」とすればまさに「その言や善し」であるが、「否」ならば単に世を惑わす戯言(たわごと)を呟くだけの口舌の徒と言わざるを得ず、(いくら商売とは言え)そのような無責任な妄言は慎むべきである。要するに、無法地帯における国家の在り様は、今日の偏差値優先教育で言ういわゆる「勉強」の問題ではなく、日本人の誇りと命を賭けての「行動」の問題なのである。
五、中国人船長の釈放は、まさに「大人の判断」であって法律論の問題ではない
そもそも尖閣諸島に中国籍の漁船が侵入することは今に始まったことではない。そのゆえに、この問題を考える前に、我々は、先ず、彼の「竹島」問題に思いを致すべきである。
「竹島」は現在、韓国が実効支配している。が、しかし、日本政府は手が出せない。日本の立場とその法律に則って言えば、(韓国軍は一発も発砲せずに上陸してきたのだから)武力侵攻とは言えない、とは言え、国家主権を侵害する不法行為であること間違いなく言わば不法入国者である、さてどうしたものか、と言う図式である。結果的に(独立国の生命線たる領土護持の信念も確信も無い日本政府は)ただ泣き寝入りして先送りしているのが偽らざる現状である。
ヤクザ者がいつの間にか自宅の一室を不法に占拠している。実力行使で追い出したいのはやまやまだがその腕も気概も勇気も無い。いざと言うときの用心棒として莫大な金を払って頼ってきたアメリカ軍というパトカーに「大変です。今、韓国軍が不法入国しています。すぐに来て下さい」と110番しても、「それは二人の問題であってパトカーの関知する所ではありません。二人で良く話し合って解決してください」と取り合ってくれない。もはや泣き寝入りする以外に道は無い。「そのうち何とかなるだろう」というのが実情なのである。
であるならば、尖閣諸島近海において我が物顔で跋扈跳梁する中国漁船に対しても、腫れ物に触らぬように黙って追い返しておけば良かったのである。それが戦略的互恵たる日中両国の暗黙の了解であり、大人の対応というものである。それをどこでどう間違ったのか、(従来の方針に反し)中国漁船の挑発行為にまんまと引っ掛かってことを荒立てたのがそもそもの過ちと言わざるを得ない。逮捕を決断するまでに要した12時間余の遅疑逡巡が従来の日本の立場を雄弁に物語っている。
ゆえに、多少時間は掛かったが、(従来の日本政府方針通り)中国人船長を釈放したのはまさに「大人の判断」と言える〈釈放が長引けば、実力行使ということで中国人が大挙して尖閣諸島を占拠する恐れは多分にあったのである〉。それを自民党を始めマスコミ報道がここぞとばかりに民主党政権の言わば弱腰(柳腰)外交を批判するのは天下の笑い者である。
巨額の財政赤字はもとよりのこと、独立国家の生命線たる自国領土の護持を無責任に放置してきた最大の責任者は他ならぬ自民党政権である。その意味で彼らに今の民主党を批判する資格は無い。声高に批判すればするほどまさに「天に唾する行為」であると知るべきである。況んや、何の見通しも信念もなくただ珍奇な目先の現象を追い求めるだけのマスコミにおいてをや、である。
六、尖閣ビデオ流出の海上保安官は、愛国者か非国民か
要するに、中国人船長の釈放問題とビデオ流出の海上保安官の問題は(もとより同一の尖閣事件に関わるものではあるが)その性質は自ずから異なるものである。
後者の場合こそ、まさに「ヤメ検弁護士」コメンテーターの出番なのである。が、しかし、周知のごとくこの件に関してはなぜか彼らの発言トーンは湿り勝ちであり及び腰なのである。保安官の行為を肯定的に受け止める国内世論が半ばするゆえに、それに配慮した結果であることは明白である。が、しかし、このようなケースこそ国内法に則って粛々と裁定すべきなのである。
情報フォルダーの処理を誤り4~5日間、海上保安庁の内部で誰もが閲覧、取り込みが可能な状態であったにせよ、一般人はアクセスできなった映像であり、かつ国会においてこのビデオの公開、非公開についての論議がされていたことは国民周知の事実である。
ビデオの公開、非公開が気に入ろうが気に入るまいが、それを決めるのは政府であって、件(くだん)の海上保安官ではない。その主義主張がどうあれ、海上保安庁の職員という立場で偶々(たまたま)取り込むことができた情報を勝手に公開するのは明らかに守秘義務違反であり服務規程に違反する。
それによって外交上、日本が不利益を蒙ればまさに利敵行為となり、通常の軍隊ならば軍法会議ものである。
国家機密の漏洩という観点から言えば、まさに孫子の曰う『間のこと、未だ発せざるに、而も先ず聞こゆれば、間と告ぐる所の者と、皆死す』<第十三篇 用間>の仕儀となる。
このような命令違反が常態化すれば、まさに孫子の曰う『将弱くして厳ならず、教道も明らかならずして、吏卒は常なく、兵を陳ぬること縱横なるを、乱という。』<第十篇 地形>の状態に陥ることは必定である。
彼がいかなる怒りの感情を抱いてビデオを公開したのかは定かではない。が、(世論的な功罪が半ばするという事実は)、やりようによっては彼は時のヒーロー、もしくは愛国者となり得た可能性があることを示唆するものである。
しかし、残念ながら彼は肝心な一点で判断を誤ったと断ぜざるを得ない。彼は先ず脱藩して、つまり海上保安官を辞職して然る後に、堂々と個人の立場でビデオを公開すべきであったのである。そうすればその義憤の思いは「そこまでして…」と、多くの日本人の心を打ったことであろう。
また、件(くだん)の海上保安官の行為を彼の赤穂浪士の義挙のごとくに称え、当時の幕府がその裁定に苦慮する様をこの事件との相似形として捉え論ずる向きもある。しかし、それは贔屓の引き倒しと言うものである。
第一に、赤穂義士は赤穂藩という言わば国家公務員の職を離れ、まさに浪々の身で決起している。その上で切腹と裁定された訳である。その内容も「武士の生き様としてはもとより賞賛すべきことである。しかし幕藩体制下における法秩序の維持という観点からは見過ごせない」ということなのである。その結果、彼らに切腹という武士としての最高の名誉を与え、同時に幕府の法秩序の維持も図ろうとする苦肉の策なのである。
その観点から今回のビデオ流出事件を論ずれば、件(くだん)の海上保安官氏は、もとより職を辞しての行為でもなく、むしろ、あわよくば自身の地位保全を画策していたことは明白である。まさに孫子の曰う『必生は虜(とりこ)とすべし』<第八篇 九変>なのである。
また、海上保安官の生き様という意味では、お世辞にも賞賛に値するものとは言えない。このような人物を彼の赤穂義士に比するとは、日本の平和ボケもここに極まれり、と断ぜざるを得ない。つまり彼は、ヒーローどころか単なる愉快犯に過ぎず、その意味では似非(えせ)愛国者であり、非国民・裏切り者と言わざるを得ない。
ともあれ、「船を衝突させた中国人船長は釈放されたのに、映像を流した海上保安官を逮捕するのはおかしい。やるべきことをやってくれただけだ。悪いのは公開すべき情報を隠した政府の方だ」などの論が根強くあるが、これは明らかに問題の本質を混同するものと言わざるを得ない。
それを言うなら、「竹島」に不法入国している韓国軍をなぜ国内法に則って粛々と処罰しないのか、北方領土を不法占拠しているロシア軍をなぜ国内法に則って厳正に処罰しないのか、という論理に帰結する。
もとより、そうしたのは山々であるが、現実的にはできない、ゆえに「触らぬ神に祟り無し」で涙を呑んで泣き寝入りしているだけのことなのである。即ち、尖閣事件に関する中国人船長の釈放問題はまさにこれまでの日本政府の方針に則ってのものに他ならず、法律論で云々するがごときレベルではないのである。
我々にできることは、日本のこのような厳しい現実を直視し、国民一人ひとりが真摯に懺悔し、何時の日か実力を以てこれらの国々を従えるような国運隆盛を図る方向で一致団結することである。もとより「ローマは一日にして成らず」であることは論を俟たない。
ともあれ、今日の日本を取り巻く待った無しの難問山積の状況を招来させたのは、(既に選挙民は忘却してるかも知れないが)自民党の長期政権なのである。我々はそのことを厳に銘記すべきである。この尖閣事件一つを見ても、早期かつ適切に対処すべき機会と時間はいくらでもあったはずなのに、ただ選挙目当ての目先の利益を追求することに汲々とし、政権党としての最重要課題たる領土護持の責務を軽視してきた結果である。
今さら、民主党政権を批判できる道理も筋合いも無い。彼らが真に健全な野党たらんことを欲するならば、まず自らが「後悔すれども懺悔せず」の低俗人間と同列の行為は慎むべきである。然るにその現状は、実に見苦しくおぞましい限りである。
そもそも、半世紀余に亘って蓄積された様々な政治的制度疲労や古い体質を捨てて新しき日本を創造するめに政権交代が実現したはずである。我々は幾多の苦難に耐えてその方向に邁進すべきなのに、昨今の政治、マスコミ、選挙民などの動向は明らかにその原点を忘れたかのごとき感が否めない。まさに「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」の流れに傾きつつあるようである。
三日坊主が人の世の常とは言え、それではあまりにも節操が無い。これでは「桃栗三年、後家半年」と言わざるを得ない。通常、それが芽生えてから実を結ぶまで「桃栗三年、柿八年、柚は九年」と謂われているが、こと政権交代に関する選挙民の意識という意味においては「桃栗三年、後家半年」と謂いたいのである。
その心は、桃と栗は結実まで三年、しかし、後家(未亡人)さんの貞操は半年と保てない、つまり節操が無い、実に軽いという事である。確かに「熱し易く、冷め易い」のは日本人の民族的特性ではある。が、同時に「直き心」も有するものである。ゆえに、我々は真摯に懺悔することが可能なのであり、懺悔しなければならない。なぜならば日本の発展にとって政権交代の意義は実に重大だからである。
七、日本が再びアジアの盟主となる日は到来するのか
孫子は曰う『夫れ、将(リーダー)は国の輔(介添え)なり。輔、周(密)なれば、則ち国必ず強く、輔、隙(間)あれば、則ち国必ず弱し。』<第十篇 地形>と。
何ごとを為すのであれ最重要の課題は、まずリーダーに人を得ること、もしくは優秀なリーダーを養成することであることは論を俟たない。しかし、問題は、かつて(武士道教育の余光たる)有為の人材が雲の如くに輩出した幕末・明治の時代と異なり、(商人国家たる)今日の平和ボケした日本は、優秀なリーダーたる有為の人材の枯渇・欠乏状態に陥っていることである。
平和ボケした日本人は、とりわけ政治権力の一極集中や濫用、あるいは独裁者を極端に忌み嫌う傾向にある。国難山積の今日のごとく、まさにカリスマ的なリーダーによって国を変革する必要がある時には(この特質は)確かに大きなマイナス的要素である。
しかし、視点を変えれば、(この特質は)日本人に最適の政治システムを創出するための強力な原動力と成り得る可能性を秘めたプラス的要素である。
言い換えれば、(日本人の忌み嫌う独裁者の対極にある)真に公正無私なリーダーを選出することができるシステムを創出し、それに則って、真に公正無私の賢人たるリーダーを発掘・選出し、かつその土台には「政治権力の一極集中を完全に防止し、権力の濫用・腐敗、独裁者の出現を阻止するための独創的なシステム」が担保されているとなれば、恐らく日本人は自らが選出したそのリーダーの下、一億火の玉となって協力を惜しまないであろう。
日本人は世界に冠たる優秀民族ゆえに、そもそも優秀なリーダー(賢人)がいないわけではない。「出る釘は叩く」という民族的な特質、島国根性ゆえに、まさに「天の岩戸」のごとく真のリーダー(賢人)は嫌気が差して隠れてしまっているのである。
言い換えれば、いわゆる職業政治家、もしくは世襲政治家、はたまた政治屋的政治家に象徴される国会議員諸侯は(一般的に)頼みもしないのに自ら手を上げて出てきた人々である。それはそれで善しとすべきであるが、往々にして、この種の人物には真のリーダー(賢人)たるの資質を見出し難いのである。
むしろ、腹に一物、背に荷物、脛に傷持つがごとき不審な輩も少なからず見受けられるのである。現国会における政党間、政党内を問わず国民無視、ただ政争ありきの「蝸牛の角上の争い」たる誹謗中傷合戦を見れば一目瞭然である。彼らに果たして『滅私奉公』という志があるのだろうか。その覚悟もなしに、政治などという大それた任務を担うべきでない。世の中が混乱するだけである。
公正無私の賢人たるリーダーとは、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ民をこれ保ちて、而も利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>に比すべき人物である。このような人物を得ることはまさに国家にとっての幸運である。ゆえに今日、最優先の課題として、先ずは地方政府から公正無私のリーダー選出システムを創出し果敢に実施すべきである。
言い換えれば、現今の職業政治家、世襲政治家、はたまたいわゆる政治屋的政治家は今や無用の長物としてしてこれを廃し、上記のごとき方法で選出したリーダーの下、日本民族のパワーを結集することこそが、今、煮え湯を飲まされている中国や韓国・北朝鮮、ロシアに優越する道なのである。無能にして不要な国会議員たちが私利私欲のために「蝸牛の角上の争い」をしている時ではない。
それでなくても、例えば、日本の国力を低下させ、逆に外国の力を益々強めるものとして日本の優秀な頭脳と技術の流出問題がある。極論すれば「今の日本には愛想が尽きた」と言うことである。つまりは国政を担うリーダーに人を得ていないからである。
また例えば、環太平洋パートナーシップ参加の問題も然りである。そもそも、あらゆる国と通商することこそが明白に日本の発展する道であるにも拘らず、農業保護・既得権擁護の立場に立つ反対勢力によって国論は二分されている。
そもそも南北に長くて豊富な水資源に恵まれ、多種多様の地形と気候風土を特色とする日本の国土は、やり方によっては世界に冠たる農業立国になる可能性が多分にある。にも拘らず、依然として農業政策が隔靴掻痒的な的外れ状態に終始していることは、これまた国政を担うリーダーの貧困であり、枯渇と言わざるを得ない。
このゆえに、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第十篇 地形>のごとき人材の発掘・選出システムの創出が急務なのである。
かつての文明開化の時代と異なり、今や日本は西洋文明の物真似を脱却し、言わば日本文明を世界に発信すべき時である。西洋型民主主義の経験とその長所・短所を踏まえつつ、日本人の民族的特性を踏まえ、日本独自の真に民主的な政治システムを構築し、その旗の下で一致団結すべき時なのである。これこそ、日本が再び中国や韓国・北朝鮮、ロシアの上に立ち、かつての栄光を取り戻す道である。
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孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
古伝空手・琉球古武術は、日本で一般的な、いわゆる力比べ的なスポーツ空手とは似て非なる琉球古伝の真正の「武術」ゆえに誰でも年齢の如何(いかん)を問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものであります。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。
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- ※「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」通学ゼミ講座 受講生募集
- 2015年01月07日
- 22:【孫子 一問一答】シリーズ 第四回の「立ち読み」のご案内
- 2014年09月29日
- 21:【孫子 一問一答】シリーズ 第三回の「立ち読み」のご案内
- 2014年07月23日
- ※著者からの「読者サービス」のお知らせ
- 2014年06月16日
- 19:電子書籍【孫子 一問一答】シリーズ第二回出版のお知らせ
- 2014年04月10日
- 18、根本的におかしいNHK・百分de名著「孫子」
- 2014年03月14日
- 17、孫子兵法の大前提となる「兵力比互角」の問題について
- 2014年01月17日
- 16、現行孫子と「竹簡孫子」の根本的な違いについて
- 2013年12月22日
- 15、〈第三篇 謀攻〉に曰う「兵力比互角の戦法」について
- 2013年12月12日
- 14、 孫子の曰う『善後策』と『拙速』の真意について
- 2013年10月30日
- 13、孫子の巻頭言と「五事」「七計」について
- 2013年08月06日
- 12、孫子の理論体系(全体構造)と体系図について
- 2013年04月18日
- 11、電子書籍【孫子正解】シリーズ第一回 出版のお知らせ
- 2012年12月27日
- 10、なぜ孫子兵法を学校で教えないのでしょうか
- 2012年05月05日
- 9、現代日本人はなぜ兵法的思考(戦略思考)が不得手なのか
- 2011年10月20日
- 8、老子と孫子の共通性について
- 2011年05月30日
- 7、孫子兵法と易経・老子・毛沢東・脳力開発との関係について
- 2011年05月24日
- 6、『敵を殺す者は怒りなり』の通説的解釈を斬る
- 2011年04月07日
- 5、 孫子の曰う『善後策』と、一般に謂う「善後策」とは似て非なるものである
- 2010年12月01日
- 4、危うきかな日本 ~尖閣ビデオ流出行為は非国民かヒーローか~
- 2010年08月26日
- 3、孫子の曰う『拙速』と、巷間いわれる「拙速」の根本的な違いについて
- 2010年05月22日
- 2、「孫子はなぜ活用できないのか」のご質問に答えて
- 2008年11月20日
- 1、孫子をなぜ学ぶ必要があるのか