26:孫子の曰う『拙速』と、いわゆる「拙速」の典型例たる「戦争法案」との関係
〈質問〉
安倍政権は、いわゆる「戦争法案」に対する世論の批判が高まり、国民の理解が進んでいないことを認めていながら衆議院特別委員会において採決を強行しました(2015・7・16衆院通過)。凡そ立憲民主主義という国のあり方を全く弁(わきま)えていないかのごとき安倍政権の不誠実かつ傲慢(ごうまん)不遜(ふそん)、横暴なやり方に対し、国民の不安と反発、怒りと不満の声は日増しに強くなり世論調査ではほぼ七割の人が強行採決は良くない、もっと議論を尽くすべきだ」としています。とうとう内閣の支持率も下がり始めて中には35%という結果まで出ており、国民が「戦争法案」に対しては明確に「NO」を突き付けているという傾向が強まっています。
ところで、この「戦争法案」を巡るこれまでの一連の流れをよくよく考えて見ますと、これこそまさに世間一般で言われている「拙速」、則ち、「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦速決・速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の典型例ではないかと思いました。このことを奇貨(きか)として、孫子の曰う『拙速』と、世間一般で言われている「拙速」とはどこがどう違うのかを教えてください。併(あわ)せて、主権在民たる我々有権者は、この「戦争法案」に対していかなる思想と態度を取るべきかについてのアドバイスをお願い致します。
〈回答〉
[Ⅰ]今日、日本の立憲民主主義・平和主義は戦後最大の危機にある。
いわゆる戦争法案を巡る論戦の舞台はいよいよ参議院に移り(2015・7・27))、本格的な審議が始まりましたが、安倍首相は、「内閣支持率のために政治をしているのでない。我が国を守るために本当に必要だと思うことは、多少、支持率を下げてもやるべきである」とその独善的な姿勢を崩さず、「戦争に巻き込まれることは絶対にない、徴兵制は全く有り得ない、専守防衛の原則にいささかの変更もない」などの根拠不明にして独善的物言いと極めて不誠実な詭弁を繰り返しつつ、予定通り九月中旬までに法案を成立させたい意向を示しております。
そもそも昨年の衆議院選では争点化もされてもいなかった「戦争法案」をいかにも全面白紙委任されたかのごとき言わば詐欺的虚言を弄(ろう)しつつ閣議決定という前代未聞の手法で憲法の解釈変更を行ったのです。まさにこのやり方は、立憲民主主義国家たる日本の政治体制を根本から捻じ曲げるものであり、極めて明白な憲法違反と言わざるを得ません。
そもそも、歴代内閣が60余年間、「集団的自衛権の行使は憲法上、許されない」という政府見解を踏襲してきたことを完全に無視して、単に、一次的に決定権を持つだけの一内閣の分際で憲法の解釈を変更し、日本の命運に関わる国是を変えようとしているのです。しかも最終的に決定権を持つ国民の声を無視して勝手に進めているのです。国民を舐(な)めきった態度と言わざるを得ません。まさに彼は、敗戦後の歴代総理中、(そのクールなイメージとは凡そ真逆で)実に反知性的にして性悪な最低最悪の総理であり、彼のヒトラーのごとき独裁者を目指す危険な人物と断ぜざるを得ません。つまりは、日本の一番偉い最高責任者こそが日本国民にとって明白な危険であると言うことです。今日、日本の立憲民主主義が風前の灯と化している所以(ゆえん)です。
ともあれ、『国民の大多数は無知蒙昧(むちもうまい)の輩だから、彼らが「戦争法案」のデタラメさや、それを誤魔化(ごまか)すための自民党の大ウソに気付く前に、数の力にものを言わせて強行採決してしまえば、(国民に一時的な怒りがあったとしても)来年の参議院選までにはすっかり忘れてくれるだろう。彼のヒトラーのごとく、「戦争法案は合憲だ、法的安定性は保たれている」という真っ赤なデマでも、少なくとも百回以上[正しい]と言い続けていればやがてマインドコントロールされてそのうちそれが本当になるのだ』という目算があるようです。
とは言え、予想以上の支持率の低下、とりわけ女性層の支持率急低下には、彼なりに強い危機感を抱いているらしく、連日、積極的にテレビやインターネットの番組に主演したり、あるいは女性イベントに顔を出したりして、「戦争法案は日本の抑止力を高め、戦争を遠ざけるためのものである。国民の命と安全な生活を守るためのものである」とその必要性をアッピールしています。
とりわけ、フジテレビには一時間半も出演し、「戦争法案」のたとえ話として「アメリカの母屋(おもや)ではなく、その離れが火事になったら、消火を手伝うのだ」と解説していました。古来、日本の農村においては、たとえ「村八分」の家であっても、火事と葬儀のときだけは例外として村人全員で協力するという暗黙の了解がありました。そのような性質の消火活動とそもそも命の懸かっている戦争を同列において比べるという発想自体が極めて不見識・不適当であり、しかも恥の上塗(うわぬ)りのごとき凡(およ)そ非現実的な火災現場の模型を使い、得意気に「工夫を凝らした分かり易い丁寧な説明」と自画自賛していたのには流石(さすが)に驚きました。
そもそも、(その内容はさておき)言わば戦争法案の必要性、言い換えれば、国をいかに守るかというその意義や重要性が問題にされているのではなく(因みに、近代国家においては国防のために国民がその身を挺して戦うのは原則であり崇高な職務であるゆえに、もとより、そのことの意義や重要性が論じられるはずもないのであるが)、その戦争法案が閣議決定される以前の、単に一時的に権力を任されているに過ぎない一内閣による恣意(しい)的な憲法解釈の変更、つまりは「戦争法案」それ自体の違憲性が問われているという意味が全く分かっていないのです。
いやしくもこれが一国の首相たる人物の(その職業的専門能力はさておき)、いわゆる人間性という意味での総合的な知的レベルなのかと実に薄ら寒い不気味な思いを禁じ得ませんでした。要するに、現代日本の首相としては甚だしく感覚がズレており、頓珍漢(とんちんかん)なのです。これではいくら時間をかけても議論が噛み合うはずがありません。もっと怖いのは、安倍首相の側近から、あるいは閣内から、はたまた与党内部の議員から「そんな馬鹿げた説明は止めろ」などのアドバイスが一向に聞こえてこないということです。
つまるところ、裸の王様たる安倍首相の周りには「王様の言われる通りでございます」とただ煽(おだ)て上げるだけの茶坊主と腰巾着(こしぎんちゃく)が侍(はべ)り、こぞって賛成票を投じた数多(あまた)の自民党・公明党の与党議員は、「沈黙は金(きん)」「立身出世が第一」と言わんばかりに議員個人の本心はひた隠し、執行部が右と言えば右を向くだけの、まさに上だけ見ている言わばヒラメ議員と化しているお粗末さです。
確かに、昨年の衆議院選挙において、自民党・公明党は約三割の得票率で約七割の議席数を獲得しました。その意味では、今回の強行採決は政府・与党が多数決で勝ったと言えます。しかし、国民のほぼ七割が反対しているという事実を無視して、得票率わずか三割の、しかも与党議員一人ひとりの本心が全く聞こえてこない、まさに戦前の大政翼賛会(すべての政党が政府批判をやめ御用政党と化す意)のごとき自律性の著しく欠落したヒラメ議員がいくら賛成票を投じたからといってそれをもって「多数決は正しい」とは言い難く、ましてや安倍首相の言うように「多数決こそが民主主義の王道である」などとは言えるべくもありません。
むしろ、そのような考え方・やり方こそ、立憲民主主義を破壊しようとする独裁政治そのものと言わざるを得ません。そもそも、第二次大戦前のドイツが、当時として最も民主的かつ模範的といわれていたワイマール憲法を掲げていながら、なぜ、民主主義を否定するナチス・ヒトラーの独裁を実現させてしまったのかと言えば、それはまさにそのことが(安倍内閣の憲法の解釈変更・戦争法案の強行採決のごとく)民主的な手続き(多数決で物事の是非を決める方法)で合法的に行われたからであります。
因みに、ヒトラーは議会に「民族と国家の困難を除去するため」に」ナチスに五年間に限って立法権を与える法案を提出しました。この「全権委任法」は、ワイマール憲法の規定にないものであったため、その成立には議員の三分の二以上の出席と、かつ三分の二以上の賛成が必要とされていました。この要件をクリアするためにヒトラーは、反対する議員を拘束し、欠席した議員も出席した見なす特例法を制定し強引に成立させたのです。これがナチスの独裁に正当性を与える法的根拠となったのです。
まさに今日、我が国において秘密保護法を制定し、内閣法制局を私物化・私兵化して「集団的自衛権の行使は憲法違反ではない」と己の主張を代弁させ、かつ憲法解釈とはとうてい言い難い屁理屈(へりくつ)をならべ立てて戦争法案」は合憲であると主権者たる国民を騙(だま)そうとしている安倍内閣に重なるものがあります。
ともあれ、「事実は小説よりも奇なり」「嘘のような本当の話し」のごとき事態が白昼堂々と行われたわけであり、民主的なワイマール憲法を全く変えることなくドイツ国民が気づいた時にはすでに彼の悪名高きナチス・ヒトラーの独裁が実現されていたということです。この事実を我々は忘却すべきではありません。言い換えれば、このたびの極めて明白な憲法違反たる閣議決定を踏まえての「戦争法案」が、安倍首相が言うがごとく民主的な手続き(多数決で物事の是非を決める方法)を経て決められたとしても、それが果たして正しい決定と言えるのかということです。
[Ⅱ]情勢判断の思考プロセス(何と何の衝突か、どちら側が主動性を持っているかなど)
このたびの「戦争法案」に関する安倍政権のやり方は、まさに一般に使われている意味での「拙速」、則ち「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦即決・速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の典型例と言わざるをません。言葉は確かに「拙速」ではありますが、その意味するところは、我々が日常的に良く使うところの「早速(さっそく)」と同意と解されます。
一方、古来、兵書中の兵書と称されている孫子の論ずる『拙速』〈第二篇 作戦〉が、上記のごとく単に手段の「巧拙」及びその「スピード」の意と解されているいわゆる「早速=拙速」と同意に解されるべくはずもありませんが、残念ながら孫子の曰う『拙速』は、世にキチンと理解されているとは言い難いものがあります。そこで、ここでは次のように整理してみます。
(1)何と何の衝突かーその具体的内容
①主として民主党の立場
憲法の解釈の変更による集団的自衛権の行使容認は、極めて明白な「憲法九条違反」である。これまでに、憲法学者の殆どが違憲と指摘し、日弁連会長は「立憲主義の破壊だけは認められない」と訴え、歴代の元内閣法制局長官や最高裁OBが違憲との見方を示し、ついには憲法の番人たる最高裁判所の元トップも「集団的自衛権行使は違憲である」との見解を初めて示した。
現実的には、個別的自衛権・専守防衛を基本に、周辺事態法と領海警備法で対処すれば足りる。なぜ、今、急ぐ必要があるのか。どうしても必要というのなら、まず憲法九条を改正するのが道理である。緊急性も必要性もない、まさに無理無体な戦争法案ゆえに、バカ真面目に検討すればするほど政治的にも経済的にも国民感情的にも実に不毛にしておぞましい愚劣な策と言わざるを得ない。他にやるべきことは山ほどあるだろうに、と。
②政府・与党の立場
憲法の解釈の変更による集団的自衛権の行使容認は違憲ではない、どの角度から見ても合憲である。従って、自衛隊をアメリカ軍の兵站(へいたん)部隊として機能させ、アメリカ軍と一緒に世界中で戦争のできる国にする。これが今日、最重要の課題である、と。
(2)主要な矛盾と矛盾の主要な側面
①主要な矛盾
「集団的自衛権容認は極めて明白に違憲、無効」の立場と、「集団的自衛権容認は合憲」の立場との対立。
②矛盾の主要な側面
日本の違憲審査制と(首相主導の人事で骨抜きにされ私物化された)憲法の番人たる内閣法制局との関係。
まさにこの側面こそ、安倍首相の強調する「集団的自衛権は合憲」「北朝鮮や中国の脅威から国を守らなくて良いのか」などの詐欺的虚言、デマをさも真実のごとくカモフラージュすることを可能としている元凶である。これについては後述。
(3)「いかにして国を守るか」は、両者の立場に共通して流れる思想であることは論を俟(ま)たない。言い換えれば、近代国家においては国防のために国民がその身を挺して戦うのは原則であり崇高な職務であるゆえに、もとより、そのことの意義や重要性が論じられるはずもないということである。まさに『孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』〈第一篇 計〉というがごとしである。問題(矛盾)は、どのようなやり方で、どの程度まで守るのかということである。
(4)守るべき国体(国家の状態)とは何か、その中味やいかに
①主として民主党の立場
日本の国是たる立憲民主主義の立場から言えば、「主権在民が宣言され、そもそも国政は、国民の厳正な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受するという原理を踏まえて国の最高法規たる憲法が確定されている状態」ということになる。
言い換えれば、国民の代表者が国政選挙において多数の議席を得たとしても、それはあくまでも憲法の範囲内での権限を信託したに過ぎず、何でもありの「白紙委任」をしたわけではない。その分際(身のほど)も弁えずに、60余年間、主権者たる国民に支持されてきた言わば慣習法たる憲法九条の解釈を安倍内閣が勝手に変えることなど言語道断の行為である。
真に守るべきはそのような国体であるという点においては、まさに、『道とは、民をして上(かみ)と意(こころ)を同じゅうせ令(し)むる者なり。故に、之と死す可く、之と生く可くして、民詭(うたが)わざるなり。』〈第一篇 計〉である。
②政府・与党の立場
一応は、上記の立場と同じ方向性を志向するものと言える。が、しかし、そもそも「極めて明白な憲法違反」たる閣議決定を踏まえての戦争法案という性質上、安全保障に関わる国際情勢にさらなる変化が仕生じた場合はもとよりのこと、それ以外の、たとえば基本的人権に関することでも、時の政権のさじ加減一つで好き勝手に憲法解釈を変えられるという恐ろしい時代の到来が危惧される。
つまり、将来、どのような国体(国家の状態)になるのかの歯止めは全く無いと言わざるを得ない。今日の安倍政権による歯止めなき暴走から推測すれば、おのずから北朝鮮や中国のごとき独裁的全体主義国家に行き着くことは十分に予想される。
(5)国の最高法規たる憲法はそもそも誰が守るべきものなのか。
これについて憲法は、第九九条(憲法尊重擁護の義務)で、「国家権力の行使を直接の任務とする者、たとえば国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」と明記している。因みに、この義務は論理的、道徳的性質のものであり、本条から直ちに法律的効果が生ずるものではない。しかし、法律により宣誓の義務を定める場合には本条がその憲法上の根拠となり、その場合、その法律により法律的効果が生ずるということになる。また、必ずしも宣誓の義務に反した場合に限らず、公務員が憲法を尊重擁護しない行為を為した場合にも当てはまる。
ところで、本条には国民が除かれているが、もとよりこれは、国民が(倫理的・道徳的性質たる)憲法尊重擁護の義務を負わぬことを意味するものでは無い。何となれば、そもそも(憲法前文によって)日本国民がこの憲法を確定したものであるから、国民が(倫理的・道徳的性質たる)憲法尊重擁護の義務を負うことは当然のことである。
要するに、憲法を守る立場にいる者は、あくまでも国家権力の行使を直接の任務とする者、則ち権力者であって、国民ではないということである。逆に言えば、国民が守るべきものは、あくまでも法律であって憲法ではないということである。
笑い話ではなく、実話として良く言われているのは、憲法学者から憲法の講義を受けた自民党議員は、必ず質問するそうである。「先生は、なぜ我々だけに憲法を守れと言うのか、まず守るべきは国民ではないのか、国民は憲法を守らなくても良いのか」と。先生はビックリして答える。「そもそも憲法は権力者を縛(しば)るものだから議員が守るのは当然のことである。国民が守るという趣旨のものではない」と。
どうやら、件(くだん)の自民党議員らは、そもそも憲法は国民の基本的人権などを縛(しば)るものと考えているらしい、というのがオチである。何となれば憲法改正を党是とする自民党の憲法草案には、まさにそのことが如実に示されているからである。自民党のヒラメ議員はもとよりのこと、安倍内閣の中枢たる内閣補佐官からも、現憲法軽視の声が噴出するのも蓋(けだ)し当然のことである。況(いわん)や、安倍首相においてをや、である。
ともあれ、むしろ本条の趣旨は、国民がいわゆる権力者、則ち、国家権力の行使を任務とする者に対して、憲法の尊重擁護を要求し、かつそれを監視する立場に立つものであることを明確にしたものと解される。そもそも憲法なるものは、国家権力の行使に制約を加えるという機能を有するものゆえに、国家権力の行使を直接の任務とする者、いわゆる権力者がこれを蹂躙(じゅうりん)してはならないとするのは蓋(けだ)し当然のことである。
(6)もし、悪意に満ちた首相が登場し、その気になれば憲法は変えずに首相のクーデターが可能となる。
現日本国憲法は、旧憲法下において内閣総理大臣を牽制し抑制し得た諸機関はもとよりのこと、天皇制と結びつく反民主主義的なものをすべて廃し、消滅させている。その結果として、おのずから内閣総理大臣への著しい権力の集中をもたらすこととなった。それについての憲法の考え方は、(内閣総理大臣の地位は極めて強大なものであるが)つまるところそれは国会、とりわけ衆議院によって代表される国民主権の上に立つものであり、それによって民主的統制が加えられるものである、とするにあった。
この考え方は理論的には正しいと言える。しかし、それはあくまでも時の総理大臣が「憲法尊重擁護の義務に畏敬(いけい)の念を持ち、高い見識と知性を有した言わば「偉大な常識人」いう設定であることは論を俟(ま)たない。
もし、独善的な偏向的思考で凝り固まっている安倍首相、あるいは彼のヒトラーのごとき悪意に満ちた独裁者が登場した場合は、立憲民主主義の国是は風前の灯となることはこれまた論を俟(ま)たない。とりわけ、衆議院において(まさに今日の政府・与党のごとく)絶対多数を占める政党が内閣を組織し、かつ、内閣総理大臣がヒトラーのごとく悪意ある独裁者的性格を有する者である場合には、内閣総理大臣の独裁化の恐れが生じ得ること否定できない。
(7)現実問題として、今日、実に恐ろしい事態がこの国に起きている
①言わば国是たる「戦争反対・専守防衛・平和主義」の憲法を改正したわけではないのに、いつのまにか「戦争ができる国」に憲法が変わってしまったかのよう状態が生まれつつある。日本の立憲主義・民主主義・平和主義は、敗戦後、最大の危機と言っても過言ではない。
まず、そのような状況を側面からサポートするべく手始めに成立、施行されたのが悪名高い特定秘密の保護に関する法律(安全保障に関する情報のうち、特に秘匿することが必要であるものを特定秘密として指定し、漏洩(ろうえい)した場合の罰則などを定めた法律。平成26年12月10日施行)である。
これは第二次安倍内閣が(今回の戦争法案の成立を見据えてそれと密接に連動させるべく)閣議決定して第185回国会に提出し、一強多弱の圧倒的な数の力を頼んで成立させたものである。
この法律は、行政機関が国民に知られたくない情報を行政機関の都合で「特定秘密」に指定して、「主権者」である国民の目から隠してしまえるというものであり、結果として、民主主義の根幹たる「国民の知る権利」が損なわれる恐れがあるなど強い不安と危惧の念は高まるばかりである。使われ方によって戦前の悪名高き「治安維持法」と同じ役割を果たすことになるからであり、すでに(戦争法案の審議に関して)野党議員が要求する防衛省関係の資料は、まさに戦前の情報統制のごとく重要部分が常に黒く塗りつぶされているのは、その証左と言わざるを得ない。
戦前、軍が国民の安全を理由に秘密を抱え込み、情報をコントロールしたからこそ戦争ができた、という事実を我々は忘却してはならない。そのゆえに、「何が正しく、何が間違っているか」ということを自分の頭で考えるという有権者の思考力がとりわけ重要なのである。言い換えれば、(人間の人間たるゆえんの)理性が欠落しているような状態であれば、遠からず日本は、忌(い)まわしい戦前回帰への道を辿(たど)ることになるのである。
②日本の違憲審査制と実質的な憲法の番人たる内閣法制局との関係
このたびの、前代未聞の憲法の解釈変更による戦争法案が、違憲かどうかを最終的に判断するのは、憲法八一条で最高裁判所と決められている。則ち、日本の違憲審査制は、アメリカと同じく司法裁判所型(通常の裁判所が審査権を行使する型)であり、いわゆる憲法裁判所型ではないため、法律そのものについて、合憲か、違憲かを直接問うことはできない。まず具体的な問題や事件があり、それに伴う損害や行政処分がなければ違憲審査はできないことになっている。
その意味において、これまで実質的な憲法解釈の責任を担い、時の首相さえも容易に介入できない独立性を保ってきたのが政府の一部局たる内閣法制局である。まさに、今回の戦争法案のごとく、時の内閣の一存で憲法解釈が変われば、極めて明白に法的安定性が損なわれ、法律や憲法に対する信頼が失われるからである。
このため法制局長官は長年、第一部長から次長を経て昇格する独特の慣例が続き、出身官庁も法務、財務、総務、経済産業の四省出身者で固められていた。時の政権に都合の良い人事を防ぐ狙いがあつたのである。そのような慣例の下、これまで内閣法制局の憲法解釈は、一貫して、「個別的自衛権は認めるが、集団的自衛権は認めない」であったことは論を俟(ま)たない。
③ところが悪意ある安倍政権は、内閣法制局の中立性を蹂躙(じゅうりん)し、これを私物化・番犬化して隠れ蓑(みの)にしているのである。まさにこれが集団的自衛権行使は合法であり違憲ではないとする安倍内閣の大ウソ・詐欺的虚言、デマをさも真実のごとくカモフラージュして世の人を惑わしている元凶である。
則ち、集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相は、2013年3月、上記した慣例を破り、集団的自衛権の行使を持論とする外務省出身の小松一郎氏を長官に任命した。その小松氏の死去に伴い、後任として検事出身の横畠裕介氏が現職の長官を務めている。彼の立場が(本心か否かはさておき)集団的自衛権の行使容認にあること言うまでもない。ともあれ、安倍内閣は、内閣法制局の独立性を蹂躙(じゅうりん)してまで、これまで認められてこなかった集団的自衛権の行使を認めるという前代未聞の憲法の解釈変更に踏み切ったのです。
安倍首相の決まり文句は、「集団的自衛権容認の戦争法案は、憲法違反ではない。何となれば、法の番人たる内閣法制局が憲法違反ではないと認めているから…」であり、そしてその決めゼリフは、「何よりも最終的に違憲かどうかを決めるは最高裁判所である」と嘯(うそぶ)くことである。
つまり、彼は、そもそも、未だ具体的な問題や事件が起きていないから違憲判決など出ようはずがないことを百も承知しながら、ことさら最高裁判所を例に引いているのである。その一方で、実質的な憲法の番人たる内閣法制局を私物化・番犬化して、あろうことかみずからの見解を代弁させているのである。極めて不誠実な態度であり、まさにおぞましい悪党と言わざるを得ない。
ともあれ、その言い分は真っ赤な大ウソ、デタラメな主張であることは論を俟(ま)たない。集団的自衛権の行使容認は、明白な「憲法九条違反」であることはもとより衆目の一致するところだからである。
内閣法制局の独立性を公然と蹂躙(じゅうりん)してこれを私物化・番犬化し、挙句の果てに、最高裁判所による違憲判決が未だ出ていないと平然と嘯(うそぶ)いていること自体が立憲民主主義に対する極めて危険な挑戦であり、戦争についての国是たる「戦争反対・専守防衛・平和主義」を破壊するものと言わざるを得ない。
つまり、安倍首相は、いやしくも立憲民主主義国家の首相たるものがやってはいけない言わば禁じ手に手を染めたのであり、まさにヒトラーのごとく独裁者への階段を登り始めた証左と言わざるを得ない。
(8)今日の国際情勢を冷静に判断すれば、日本の防衛は、どのようなやり方で、どの程度まで守るのかはおのずから明白である。
①主として民主党の立場
憲法の解釈の変更による集団的自衛権の行使容認は、これまでに、憲法学者の殆どが違憲と指摘し、日弁連会長は「立憲主義の破壊だけは認められない」と訴え、歴代の元内閣法制局長官や最高裁OBが違憲との見方を示し、ついには憲法の番人たる最高裁判所の元トップも「集団的自衛権行使は違憲である」との見解を初めて示したことから見ても明白な憲法九条違反であることは論を俟(ま)たない。
そこまでしてまで、安倍首相が強調するところの北朝鮮の弾道ミサイル脅威論(日本の大半を射程に入れる数百発もの弾道ミサイルを配備し発射されれば十分で到達するなど)、あるいは中国の軍拡脅威論(日本の三倍の軍事費をつぎ込み南シナ海で埋め立てを強行しているなど)に備える必要性があるのかと言うことである。
今日の国際情勢と北朝鮮・中国の戦略的意図を冷静に判断すれば、おのずから答えは「NO」と言わざるを得ない。むしろ、安倍首相の北朝鮮・中国脅威論はあくまでもカモフラージュであり、その本当の狙いは、ただ単に安倍首相一個の名誉心を満たすことと、偏執狂的な信条たる集団的自衛権の行使を実現することにあると解される。
言い換えれば、今日の国際情勢を冷静に判断すれば、当面は、これまで通り我が国の周辺たる極東地域を見据えて個別的自衛権の下、専守防衛に徹し、領域警備法や周辺事態法で対処すればそれで十分である(これが『拙』の意。とりも直さずそのことが、今日、只今の立憲民主主義国家の維持・堅持に直結する。これが『速』の意)。
自衛隊とアメリカ軍が共同して作戦を展開する地域を、従来の極東地域を超えて、アジア・太平洋から世界の至るところに広がるようにする必要性など凡そナンセンスと言わざるを得ない。孫子の曰う『拙速』〈第二篇 作戦〉、言い換えれば、「費用便益分析」の思考法からすれば、むしろそれは無益かつ極めて危険な行為と断ぜざるを得ない(これが『巧』の意)。
とりわけ看過できないのは、一次的に権力を任されているに過ぎない安倍政権が、最終的な決定権者たる国民の声を無視して日本の命運に関わる集団的自衛権の行使容認を好き勝手に強行採決するのは立憲民主主義を破壊する暴挙であり、かつそもそも集団的自衛権が成立していない日米安保条約に反する行為である(これが『久』の意)。
付け加えれば次のように言える。則ち『そもそも北朝鮮の弾道ミサイル脅威論を強調し、いたずらに国民の恐怖心煽(あお)るのなら、その前にまず、たとえば高い防御を有するイスラエルの迎撃システム「鉄のドーム」ごときものを構築するのが先である。国民の命と暮らしを守るためと言い張るなら、まず北朝鮮にいる拉致被害者の救出を実現して範を垂れるべきである。
原発再稼働の前に、まず使用済み核燃料のゴミ処理の問題を先に解決すべきである。次に国の責任で東電福島第一原発事故の構造的な要因を徹底的に調査すべきである。その上で、国と自治体は、何万人もが何年間も避難先で生活する事態をキチンと想定した避難計画を立てるべきである。そうしなければ原発再稼働の真の意味での安全対策とはならない。そして何よりも原発再稼働に反対する主権者の声に耳を傾け、根本的な問題解決策たる再生可能エネルギー導入システムの導入に方針を転換すべきである』と。
②政府・与党の立場
「今日、日本の安全保障関係は大きく変化しています。北朝鮮、怖いですね、中国、恐ろしいですね。それらの脅威からいかにして国を守るか、それが第一です。法的安定性など関係ないです。もそも憲法を守って国が亡んだら本末転倒です。
だから、集団的自衛権の行使を容認し、抑止力を高めることが必要なのです。自衛隊がアメリカ軍と一緒になって世界中どこでも戦えるようにすることによって、初めてグレーゾーン事態(準有事)からあらゆる事態まで切れ目なく対応することが可能となり、国民の命と幸せな暮らしを守ることができるのです、と。
[Ⅲ]孫子の曰う『拙速』〈第二篇 作戦〉と、一般に使われている「拙速」との違い。
(1)一般に使われている「拙速」とは
このたびの「戦争法案」を巡る一連の流れこそ、まさに世間一般で言われている「拙速」、則ち、「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦速決・速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の典型例と言わざるを得ません。その理由は次の通りです。
①憲法学者の殆どが違憲と指摘し、日弁連会長は「立憲主義の破壊だけは認められない」と訴え、歴代の元内閣法制局長官や最高裁OBが違憲との見方を示し、ついには憲法の番人たる最高裁判所の元トップも「集団的自衛権行使は違憲である」との見解を初めて示しているにもかかわらず、凡そ理屈にならない、前代未聞の屁理屈を付けて集団的自衛権が行使できる戦争法案は合憲だと言い張っていること。
②権力をフルに活用して、政権批判には官邸から圧力をかける、反対意見には耳を貸さない、マスコミ幹部とは頻繁に会食を繰り返し、マスメディアを懐柔しようとしていた。
③事実上の法の番人と謂われる内閣法制局の中立性を蹂躙してこれを私物化・番犬化し、集団的自衛権の行使は違憲ではないと言い張る根拠にしていること。また、日本の違憲審査制は、いわゆる憲法裁判所型ではないことを承知の上で高(たか)を括(くく)り(現時点において違憲審査など起こり得ようはずがない意)、違憲かどうかを最終的に判断するのは、最高裁判所であると嘯(うそぶ)いていること。
④一つひとつがまさに最重要法案に匹敵する合計十本の法案を、こともあろうに十一本の法案にまとめて審議する形をとり、意図的に噛み合わないようにしている不誠実な質疑を繰り返して問題点をはぐらかし、必要な質疑時間は十分に消化したと自画自賛して、数の力を頼み衆議院で強行採決したこと。
⑤参議院の審議においても、ともかく強行採決してしまえば、(国民に一時的な怒りがあったとしても)来年の参院選までにはすっかり忘れてくれるだろうと、これまた高(たか)を括(くく)っていること。
つまるところ、「戦争法案」に関する安倍政権のやり方は、まさに一般に使われている意味での「拙速」、則ち「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦速決・速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の典型例と言わざるを得ません。言葉は確かに「拙速」ではあるが、その意味するところは、我々が日常的に良く使うところの「早速(さっそく)」と同意と解されます。
(2)孫子の曰う『拙速』〈第二篇 作戦〉とは
①孫子の曰う『拙』とは、「手段・方法の達成度合い」、あるいは「追加的利害の大小を弁(わきま)える」、はたまた「止まるを知れば殆からず」の意と解されます。
ここでは、『(戦争法案は総合的に判断して利よりも害の大きい。従って)これまで通り我が国の周辺たる極東地域を見据えて個別的自衛権の下、専守防衛に徹し、周辺事態法・領海警備法で対処すればそれで十分とします。則ち、これが『拙』の意となります。そのことがおのずから、現在の立憲民主主義国家を維持することに直結し、本来の目的たる日本社会の健全な発展に寄与するからであります。これが『速』の意となります。
言い換えれば、ただ一次的に権力を任されているに過ぎない安倍政権が、最終的な決定権者たる国民の声を無視して日本の命運に関わる戦争法案を好き勝手に強行採決するのは立憲民主主義を破壊する暴挙であり、そもそも集団的自衛権が成立していない片務条約たる日米安保条約に反する行為です。これは絶対に看過できない行為と言わざるを得ません。
)。
②孫子の曰う『速』とは、本来の目的の達成度合いの意と解されます。ここでは、戦争に関わる我が国の国是たる「戦争反対・個別的自衛権・平和主義」を踏まえ、戦後70年の間に築いてきた立憲民主主義国という国体(国家の状態)の在り方をこれからも守る・維持するということと解されます。つまりは、それが本来の目的たる日本社会の健全な発展に寄与するのであります。
[Ⅳ]まとめ
「グレーゾーン事態(準有事)からあらゆる事態まで切れ目なく対応することが可能となり、国民の命と幸せな暮らしを守ることができる」という安倍首相の真っ赤な大ウソ、詐欺的虚言、デタラメな主張に騙されて(これが孫子の曰う『巧』の意)、憲法の解釈の変更による集団的自衛権の行使容認を認めることは、やがては、国民主権たる立憲民主主義の国体(国家の状態)を破壊させ、戦争に関わる国是たる「戦争反対・個別的自衛権・平和主義」の否定につながることは自明の理です(これが孫子の曰う『久』の意)。
『夫れ、兵久しくして国の利なる者は、未だ之れ有らざるなり。』〈第二篇 作戦〉とはまさにそのことを曰うものです。
我々は、安倍首相のデマ・詐欺的虚言に乗せられてはならないのである。
孫子の曰う『拙速』とは、つまるところ、いわゆる追加的利害の大小をいかに考えるかという思考法(費用便益分析)であるとも言えます。
分かり易く言えば、たとえば「株の運用」や賭け事たる「パチンコ」の場合において、すでに一定の利益をその手中に収めている者が、さらなる追加的利益を求めてそのままゲームを継続するのか、あるいは、すでに得ている利益を確実なものとするためにそこでゲームセットにするのか、という決断の問題であります。
この決断の如何(いかん)によっては、すでに得ている一定の利益が「元(もと)の木阿弥(もくあみ)」と化すか、場合によっては「元も子もなくす」か、はたまた、さらなる大きな利益を追加するか、ということになります。いわゆる「蛇足」の故事やイソップ寓話の「兎と亀のかけっこ競争」のごとしです。この『拙速』の決断には、「理性」以前に感情の動物たる人間のその「感情」がいやも応もなく絡(から)んでくるので、必ずしも理屈(理性的判断)通りの方向には進まないという性質があります。
まさにその玄妙な一点にこそ、孫子が『拙速』の意義を論ずる所以(ゆえん)があるのです。ましてや、ことが一国の命運を左右するような重要問題に関しては、とりわけ慎重な理性的判断が必要とされるのです。『故に、尽(ことごと)く兵を用うるの害を知らざる者は、則ち尽(こごと)く兵を用うるの利も知ること能わざるなり。』〈第二篇 作戦〉とはまさにその意であります。
いずれにせよ、最終的には主権者たる国民が選挙で政権与党に「NO」を突き付ける覚悟を持つこと、その決断こそまさに孫子の曰う『拙』の意であります。いやしくも有権者たる者、主権在民の何たるかを自覚し、安倍首相という最高責任者こそが実は、憲法を無視し、民主主義を破壊し、日本の自衛隊をアメリカ軍に売り渡そうとしている明白にして最大の危険と認識することです。
安倍首相の言動を観察すれば、もとより彼には立憲民主主義を語る資格はないし、なによりも「言っていることと、やることがいつも違う」ため、凡(およ)そ指導者としての資質に著しく欠落しているものがあると言わざるを得ません。売り物のスマートさとはまさに真逆で、その仮面の下には、恐るべき悪意を秘めた独裁者的性格の強い陰湿にして危険な人物と言わざるを得ません。
孫子はリーダーの在るべき資質として『故に進みては名を求めず、退(しりぞ)きては罪を避けず、唯(ただ)、民を是れ保ちて、而(しか)も利の主に合(あ)うは、国の宝なり。』〈第十篇 地形〉と論じています。
安倍首相の場合は、「歴代内閣ができなかったことをオレはやったぜ」という、ただ己一個の名誉心と、独善的かつ偏執狂的信条たる集団的自衛権の行使の容認に執着しているだけの狭隘にして小心な小人物ゆえに、凡そ一国のリーダーの名に値しません。我々有権者は、「一将、功(こう)成(な)りて万骨(ばんこつ)枯(か)る」がごとき事態に陥らないように彼を厳しく監視しなければなりません。
国の最高法規たる憲法はそもそも誰が守るべきものなのか。憲法第九九条(憲法尊重擁護の義務)においてそのことが明記されております。我々は、国民主権・主権在民の意義について、改めて思いを致すべきであります。
※お知らせ
孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、以下の講座を用意しております。
※併設 拓心観道場「古伝空手・琉球古武術」のご案内
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
古伝空手・琉球古武術は、日本で一般的な、いわゆる力比べ的なスポーツ空手とは似て非なる琉球古伝の真正の「武術」ゆえに誰でも年齢の如何(いかん)を問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものであります。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。
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