9、現代日本人はなぜ兵法的思考(戦略思考)が不得手なのか
一、孫子に代表される兵法的思考(戦略思考)の必要性
(1)偏差値優先的知識教育は四民平等社会の歴史的必然である
かつて日本には、リーダーの育成システムとしては世界に冠たるいわゆる武士道教育がありました。しかし、明治維新における身分制度の廃止・四民平等社会の実現によりかつての指導者層たる武士階級は消滅し、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に武士道教育もまた弊履のごとく棄てられました。
とは言え、当時、武士道教育を受けた最後の世代たる指導者層はまだ健在でしたので、明治の時代はこの武士道教育の言わば余光によって領導され、とりわけ日清・日露の戦争はその余慶に預かるところ大であったと謂われております。
しかし、世の移ろいたる世代の交代とともに、次第に新たな指導者層として台頭してきたのが、いわゆるペーパーテストの優秀者たる「学校秀才」組です。ペーパーテストによる指導者層の選抜方法は、何よりも機会均等にして公平であり、かつ、色々な意味での能率・効率的な側面が大であったため、まさに四民平等社会のシンボリックな存在として歓迎されたのです。
とは言え、幼少より武士道教育で心身ともに鍛えられたかつての指導者と、単にペーパーテストにより選抜された新たな指導者たる「学校秀才」とでは、その資質や決断力などにおいて歴然たる差があることは否めません。責任の取り方一つを見ても、まさにその人物の人生観や死生観、平素の心構えや覚悟が如実に示されるということです。
(2)日本には確固たるリーダー論やその選抜・育成システムが欠落している
そのゆえに、本来は、ペーパーテストにより選抜された「学校秀才」に対しは、その後、少なくとも数年間は心身鍛錬を主とする武士道教育的な本物のリーダー教育を徹底的に行うというシステムの確立が必要であったわけです。そこにおいては、たとえ学業成績はビリであっても「指導者・リーダー」の資質においては確かに適任と判断された者は、まさに「リーダー・ラインの長」として遇し、確かに秀才ではあるが凡そ「指導者・リーダー」という意味では適性に欠けると判断された者は、いわゆる「スタッフ・技術屋・専門職」として遇するの適当なのです。
古来、「天、二物を与えず」と謂われているように、そもそも「リーダー・ラインの長」、あるいは「スタッフ・技術屋・専門職」という二つの異なった方面の才能を両方併せ持った人間は一般的には見当たらないと言うことです。そのゆえに、組織の円滑な運用という側面においては、この両者を厳密に区別して用いることが最優先の課題となります。況んや国家の盛衰を左右する指導者の選抜・育成においてをや、であります。が、しかし、(今日に至るまで)なぜかそのことは不問に付され、むしろ「学校秀才」イコール「真の指導者なり」との誤った常識・イメージが人口に膾炙されているのが実情です。
今日の日本社会における、目を覆うばかりのリーダー層の貧困とそれに起因する国家的損失、国民的不幸の根源は、まさにこのリーダーの選抜・育成システムの欠落にあったと言わざるを得ません。そもそも、(何事によらず)社会的システムの不備は、その問題が浮き彫りにされる従って、次第に改善・是正されるがゆえに社会は進歩発展し、人々は安心して暮らして行けるのです。況んや、「国家百年の大計」たる国家的指導者の選抜・育成システムにおいてをや、であります。その本質的かつ根本的な欠陥が旧態依然のままであることは、まさに日本人の戦略的思考の欠落そのものの証左であります。
(3)偏差値優先的な知識教育と孫子兵法・脳力開発との本質的な違い
ともあれ、この拭い難い学歴信仰社会の到来により、日本の学校教育は、究極の人間教育たる武士道教育とはおよそ対極にある、言わば「脳の演算部分だけを高める」ことを目的とする、いわゆる偏差値優先的な知識教育に偏向せざるを得なかったのです。
言い換えれば、いくら人の模範たる立派な人間になっても、かつての身分制度における武士階級のごとく、それでは全く「メシを喰っていけない」ため、猫も杓子もまずペーパーテストの優秀者たらんことを欲したのであります。そのゆえに、言わばパソコンの基本ソフト的な意味合いたる土台部分の整備(基礎的な人間教育・人間づくり)は等閑(なおざり)にされ、応用ソフト的な「演算能力」中心の知識教育が主流となったのです。
これを善意に解釈すれば次ぎのようにも言えます。即ち『総合的な人間づくりを目的とする本来の人間教育は、もとより重要ではある。しかし、それは個々人が学校を卒業してからでも決して遅くは無い。社会人としてのそれぞれの自覚の下、自主的に勉強すべきものである。そんなことよりも、当面、焦眉の急は、まず偏差値を上げること、そして良い学校に入ること、そして安定した職場に就職することが優先される』と。
つまりは、学齢期の我が子だけは「バスに乗り遅れさせてはならない」的な、言わば目先的な短絡・単眼的思考が日本社会の主流であり、暗黙的了解であったと言うことであります。
もとより、それはそれで社会の変化に状況即応した一つの見識であり決して間違いではありません。が、しかし、問題は、それがその通りにキチンと履行されているか否かということであります。とかく「熱し易く冷め易い」「喉元過ぎれば熱さを忘れ勝ちな」民族的特性を有する日本人には極めて心許ないものがあると言わざるを得ません。
とりわけ、学歴信仰社会においては、いわゆる一流大学などを卒業すれば、自他ともにそれで人間そのものまでも一人前と評価する傾向が強く、そのゆえに仕事に忙殺されるがままに人間形成(人間づくり)とは無縁の生活を送るパターンが多いようであります。もとより、ビジネスや資格試験などの勉強をする傾向も顕著ではありますが、それはあくまでも言わば応用ソフトたる従来の偏差値的知識教育の延長に過ぎず、基本ソフトたる総合的人間力の形成を目指すものとは無縁のものと言わざるを得ません。
別言すれば、今日の日本人は、問題を解決する上で最も重要な役割を果たすべき基本ソフトたる総合的人間力は「既に完成されたものとして自己の内にある」と錯覚し思い込んでいる節が濃厚なのです。まさに、孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>の『己を知る』について全く無知な人が多いということです。
人生とは、好むと好まざるとに関わらず終わり無き戦いであり、様々な問題解決の連続と言わざるを得ません。しかも、その問題たるや、偏差値優先の知識教育における問題のごとく、初めから「答え」が用意されているものは殆どありません。実社会で問題に遭遇したとき物を言うのは、いわゆる偏差値の高さではなく、玉石混交の事物の中から本質を見分け「だからどうするのか」という「答えを出す脳力」、言い換えれば、困難な状況に直面し、いかに適切な判断が下せるかという意味での脳力であります。
孫子に代表される兵法的思考(戦略思考)とはまさにそのことをテーマにするものであり、自ずからそれは、人間的総合力の根幹たる意欲・情熱・勇気・胆力・決断力・統率力・創造力・革新力など諸要素と密接不可分の関係にあります。この脳力をいかに磨くかが、人間らしくこの人世を生きるための本質であり中心点であります。つまり人生とは、いわゆる金でも地位でも名誉でもなく、『いかに生きるか、いかにその生を充実させるか、いかに満足して死ねるか(真の休息を得るか)』ということであります。
二、孫子兵法・脳力開発と、科学・哲学・宗教との違い
科学の目的は、物質という実体に働きかけてその構造・運動・変化の法則を明らかにすることにより、人間が生きる知恵を提供することにあります。もとより「人間の生死」の問題も取り扱いますが、それは言わば三人称としての生死としてであり、今、この瞬間を生きる有限の命たる個々人の言わば一人称の生死の問題を対象とするものではありません。
つまりそれは、「生きることは死を考えることである。が、その死については未だかつて誰も知らない。そのゆえに、個々人の生死への思いもまた無限に繰り返さざるを得ない」という類のものであるから、とりあえず、そういう個々人の現実的な人間存在の問題とは切り離し、「客観的な物質世界はこのようなっている」という自然法則を教えるものが科学であります。
つまり「一人称の生と死、即ち個々人の人生問題」は科学の領域外であり、ゆえに、そのことに関しては科学的知見は役に立たないということになります。言い換えれば、五感の情報だけを頼りとする人間の知識など、この宇宙(空間・時間)レベルの万物流転を理解するには余りにも微々たるものだと言うことです。
次に、哲学は、世界や人生の根本原理を追求するものですが、あれこれ抽象的概念をひねくり回して、ただ難しく複雑に考えるだけで、肝心要の「だからどうしろ」という具体的な問題解決の方法論を示すものではありません。
また、宗教は、科学とは異なり、「人間とは何ぞや」「人間の生き方とは何ぞや」を対象とするものでありますが、なぜその教義に従えば人間として幸せになれるかという論理的説明がなされないところに問題があります。そして、まさにその部分こそ、教義や教祖に対する信仰・信心の問題であると説くのでありますが、その闇雲な盲信は、(かつてのオウム真理教のごとく)時として、社会的な害悪を流す要因となるのであります。
これらに対して、孫子に代表される兵法的思考(戦略思考)、及びその実践論的体系たる脳力開発は、まさに科学の領域外たる「人間いかに生きるべきか」とその側面たる「人生いかに戦うべきか」をテーマとし、哲学と異なり、具体的にどうすべきかの具体的方法を提示するものであります。
また、宗教のごとく非論理的にただ教義を信ぜよと迫るものではなく、この方法を通常の意識のもとで具体的に実践すれば「よりよく生きることができる」「状況即応・臨機応変して適確な判断が下せる」と論理的かつ具体的に人の理性に訴えるものであります。
この方法は行動を大前提とするものゆえに、その意味では『やったもの勝ちであり、やれば成果は必ず上がる』と言うことです。もとより、やるかやらないかは当人次第であり、本当に成果が上がるものか否かを実証するのもまた当人です。つまり、通常の意識と理性を以てすれば誰でも直ぐに確認することができる性質のものです。そのゆえに、つまるところは、当人に「重い荷物を担ぐ勇気があるか無いか」、見方を変えて言えば、「行為は意志だ」とのリアルな覚悟に徹せられか否かの問題に帰一するのであります。
ともあれ、孫子兵法(戦略的思考)、及びその実践論的体系たる脳力開発を学ぶということは、必須的素養であるにも関わらず今日の日本社会には根本的に欠落しているものを他に先駆けて学ぶということであり、同時に人間の総合的実力を磨くための具体的な方法を追究すると言うことであります。
三、孫子兵法・脳力開発は、あくまでも「基本ソフト」的な性格のものである
戦いの普遍的な原理を論ずる孫子兵法と、その理論を言わばブレイクダウン(分解)させた実践論的体系たる脳力開発は、あくまでも基本ソフト的性格のものです。ゆえに、個別特殊的な個々人の環境条件でこれを具体的に活用して成果を上げるためには、当然のことながら、(基礎的な基本ソフトを踏まえて)様々な言わば個別特殊的な応用ソフトを創意工夫して使うという考え方が必要です。
逆に言えば、適切な応用ソフトの創意工夫やさらなる展開は、基礎的な基本ソフトをきちんと学ぶことにより初めて可能になるという相互関係にあります。残念ながら、こと孫子兵法や脳力開発の活用に関してはどうもこの当たりの基本的認識が曖昧であり、混同されている向きが多いようです。
言い換えれば、孫子や脳力開発を学べば、あたかもそれ専用のマニュアルのごとく直ぐに使えることができる、という考え方であります。もとよりそうゆう側面も無いとは言えませんが、基本的には思考方法の土台を練るということを主とするため、いわゆる即効性は期待できないということであります。直ぐに役立つが直ぐに役立たなくなるものを採るか、直ぐには役立たないが真に役立つ優れものを採るか、の決断であります。ここでもまた目的と手段、もしくは戦略と戦術を区別し、混同しないことが肝要であります。
ともあれ、具体的活用のための応用ソフトは、あくまでも個々人の属する環境条件に即して当事者たる個々人が個別具体的に創意工夫するのがセオリーであります。而して、適切な応用ソフトの作成やそのさらなる展開は、基礎的な基本ソフトをキチンと学ぶことにより初めて可能になるということであります。
※【孫子正解】シリーズ第1回出版のご案内
このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として下記のタイトルで電子書籍を出版いたしました。
興味と関心のある方はお立ち寄りください。
※お知らせ
孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、以下の講座を用意しております。
※併設 拓心観道場「古伝空手・琉球古武術」のご案内
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
古伝空手・琉球古武術は、日本で一般的な、いわゆる力比べ的なスポーツ空手とは似て非なる琉球古伝の真正の「武術」ゆえに誰でも年齢の如何(いかん)を問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものであります。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。
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- 28:日本人のルーツ『倭人はどこから来たのか』の出版のお知らせ
- 2016年01月02日
- 27:【孫子 一問一答】シリーズ 第六回の「立ち読み」のご案内
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- 26:孫子の曰う『拙速』と、いわゆる「拙速」の典型例たる「戦争法案」との関係
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- 2015年06月01日
- 24:【孫子 一問一答】シリーズ 第五回の「立ち読み」のご案内
- 2017年05月23日
- ※「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」通学ゼミ講座 受講生募集
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- 22:【孫子 一問一答】シリーズ 第四回の「立ち読み」のご案内
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- 21:【孫子 一問一答】シリーズ 第三回の「立ち読み」のご案内
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- ※著者からの「読者サービス」のお知らせ
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- 19:電子書籍【孫子 一問一答】シリーズ第二回出版のお知らせ
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