10、なぜ孫子兵法を学校で教えないのでしょうか
<ご質問>
なぜ孫子兵法を学校で教えないのでしょうか。
<ご回答>
このご質問は孫子に関わる非常に深い問題を含んでおります。もとより、説明するのは決して容易ではありませんが、一応、次ぎのように言うことはできます。
1、結論的に言えば、孫子は「偏差値優先的学校教育」には何の役にも立たないからであります。
この結論に至る理由を理解するためには、まず、かつてリーダー育成システムとしては世界に冠たる日本の武士道教育について理解する必要があります。
例えば第十代佐賀藩主・鍋島直正は、天保元年(1830)の藩校弘道館の改革に当たり次のように述べています。
『文武の修行をしっかりと修得したものが官途に就くようにしなければ、たとえ生まれつき怜悧(さとい・かしこい)な者でも文武の練磨をしなければ、事理に疎くなり、国を治め民を安んじる道は言うに及ばず、自分の職責を果たそうとするときには、邪見や偏見に陥りやすく、実用の役には立たないことになる。文武に励まず、ただ官途に就くことばかり考えて競争するような風俗が起これば大変よろしくない結果となる』と。(沖田行司『藩校・私塾の思想と教育』日本武道館)。
このことから明らかのごとく、いわゆる「士農工商」の封建的身分制度における支配階級にして政治的リーダーたる武士の教育目的は、人格形成や道徳性の涵養、指導者としての責任の取り方に重きが置かれていたのです。
言い換えれば、徳育(思考力と判断力)、体育(この場合はスポーツではなく心身と精神を鍛える武術の意)、知育(この場合は人間学に関する知識の意。農・工・商人的な生業のための技術・技能の意ではない)の三面を同時に全体的に学ぶことにより、政治や軍事を担当するリーダー(武士)たるにふさわしい人間完成を目指していたわけです。
とは言え、彼らは、そもそもその身分のゆえに(農工商の領民のごとく)働かずして「メシが食えた」のであり、ために生まれながらにして人間性の向上を目指しての修練にいそしめるという好環境に置かれていました。
因みに、孫子兵法は、一般的には軍事を論ずる書物のごとく解されておりますが、軍事と政治はあくまでも表裏一体・密接不可分の関係にあるものゆえに、裏を返せば、まさに孫子は政治論であり、リーダー論であります。また孫子は老子のごとく事物の変化を思想の根底におくものゆえに、例えば「おカネ」のごとく「中性的」性格にその特質があります。
このゆえに孫子兵法は明治維新前まで「国家護持の作法、天下の大道なり」の位置づけの下、儒学などの学問、神仏その他の宗教などを領導(おさめみちびく意)する思想として政治・軍事を担当するリーダー(武士)が第一に学ぶべき書物であったわけです。
2、「ペーパーテスト」が四民平等社会における立身出世の最良の手段となった。
封建的身分制度たる武士階級の消滅は、同時に、その空白化した支配階級を「新たに誰が担うのか」という問題を提起します。とりわけ四民平等社会は、教育の機会均等・能力主義を理念とするものゆえに、それらの要請に応えての最適な手段として登場してきたのが「ペーパーテスト」によるリーダー選抜方式であったわけです。
確かにこの方式は、(立身出世や技術技能修得を目指し)我も我もと狭き門に殺到する大量の希望者を極めて効率的かつ迅速に、しかも機会均等・公平性の理念を損ねることなくその審査を処理すると言う意味では実に優れものと言えます。
が、しかし、世に『天、二物を与えず』の諺があるがごとく、学校秀才、必ずしもリーダー(ラインの長)たるにふさわしい人格・識見・統率力・大局観・決断力などを具備している者ではありません。否、むしろ、彼らがいわゆる我利(ガリ)勉と嘲笑されるがごとく、まさに自己保身的なジコチュウ人間で、凡そ責任感などとは無縁のタイプが多いようであります。
要するに、リーダーの要訣たる「職責を果たせなければその地位を去る」気概と勇気に欠けるのが学校秀才的リーダーの特徴である言うことです。論より証拠、学校秀才の典型例たるいわゆるキャリアなどはまさに責任回避を常套手段とするものであり、凡そ責任を取って潔く辞職したなどの話は聞いたことがありません。
言い換えれば、いわゆるリーダー的資質を有する者は、必ずしも学校秀才的タイプの人間に非ずであり、その逆もまた真なりで両者の資質は自ずから異質なものということであります。例えば、我利(ガリ)勉をこととする冷たい秀才タイプとは対照的に、勉強はそこそこではあるが人望(人間的魅力・統率力)がありクラスの人気者的存在である言わばガキ大将タイプとの違いのようなものであります。
が、しかし、「ペーパーテスト」によるリーダー選抜方式を金科玉条のものとする日本の統治システムでは、結果的に、スタッフ的な資質(緻密な能力)は優れているが、リーダー的資質(人格・識見・統率力・大局観・決断力)の欠落している人間が、ペーパーテスト成績優秀のゆえをもってリーダー(ラインの長)となり、そもそもリーダー的資質に優れている人間がスタッフ(ラインの長の補佐・研究職)となるような天下の奇観が生ずるのであります。
言い換えれば、小学生が大学生を使っているようなものであります。古来、組織における最大の不幸は、能力の劣る者が能力の優れた者の上に位置することであると謂われております。組織におけるトラブルの根源は、まさにこの一点にあると言うことであります。ことにおいて必ず非効率・不合理という批判を浴びる各省庁のタテ割り組織などはまさにその典型例と言わざるを得ません。裏返して言えば、リーダー的資質に優れた人間がいて初めて組織のパワーは効果的に発揮されるということです。
3、なぜ明治時代は、孫子の曰う『国の宝』的リーダーが雲の如くに湧き起こったか。
既に述べたごとく、明治維新において四民平等社会が実現し、かつての武士階級に代るべき支配層(リーダー)を選抜するための最適の手段としていわゆる「ペーパーテスト」方式が採用されました。
然らば、かつての武士道的教育を受けたリーダーも武士階級の消滅とともに消え去ったのかと言えば、さにあらず、言わばその余光・余慶的な形で明治国家の屋台骨を支えていたわけであります。その意味で言えば、まさに孫子の曰う『国の宝』<第十篇 地形>とでも評すべき優秀なリーダーが雲の湧き起こった明治国家は国家として実に幸運であったと言えます。そのゆえにこそ、彼の日清・日露の両役に勝利を収め、激動する列強植民地主義時代の国際情勢に適切に対処できたのであります。
つまり、国家も組織も優秀な指導者さえいれば、その他は自ずから巧く行くものなのであります。毛沢東の曰う「主要矛盾をつかまえれば、すべての問題はするすると解ける」とはまさにそのようなこと言うものであり、孫子がリーダー論を説く所以(ゆえん)でもあります。
もとより、将軍と兵士のいずれか重要かを論ずることは難しいのですが、どちらか一方が優秀であれば、助長補短して立派な組織を創り上げることは確かであります(因みに、明治時代の日本は、将軍も優秀でありましたが、兵士たる個々の国民もまた優秀であったため世界に冠たる偉業を成し遂げたものと言えます)。
とは言え、いくら立派な組織でも優秀な将軍に統率されていなければ傲慢不遜な緩み切った組織に陥り易いことは確かであります。彼のナポレオンは、『一頭のオオカミに率いられた千頭の羊の群は、一頭の羊に率いられた千頭のオオカミの群に勝つ』と。古来、「戦いの勝敗を決するものはリーダーにあり」とされ、リーダー(トップ)の働きがいかに大きな影響を与えるものであるかを言うものです。
見方を変えて言えば、一人の人間が社会を変えようとすれば膨大な労力とエネルギーが必要とされ、しかもその成否は全くの未知数であります。そんなムダで不確実なことをするよりも、当人が当人そのものを変革した方が遥かに容易であり確実であり、かつ実利的であることは論を俟ちません。その人が「一隅を照らす人」たり得ればなお善しと言うことです。
同じように、一人の人間が多くの人間を優れたリーダーに育成しようとするよりは、多くの優れた人間が一人の人間を優れたリーダーに育て上げる方が遥かに易しいし、その方が効率的・効果的であることは論を俟ちません。
因みに、幕末における武士階級の総人口に対する割合は、5%位と謂われております。その意味で言えば、幕末時代において日本は、20人の農・工・商の人々が一人のリーダー(武士)の生活を養い、かつ育成するシステムを有していたとも言えます。言い換えれば、武士道教育によって育成されたリーダー達により日本は明治維新を成し遂げ、世界に雄飛したと言うことになります。
つまり幕末の日本人は、「一万の兵を得るより、一人の将を得る方が難しい」、「戦争の準備とは、何はさておき将の養成にある」との古来の金言を期せずして実践していたと言うことであります。
然らば、そのような武士道教育の余慶もしくは余光的僥倖が際限なく続くのか、と言えばさにあらずであり、人には寿命というものがありますから、やがてはその世代の人々は死に絶え、新たな世代の人々、即ち、ペーパーテストの成績優秀者(学校秀才)たるリーダー組が次代を引き継ぐということになります。
もとより、このタイプのリーダーは、単にペーパーテストの成績が優秀であったというだけのことであり、かつての武士のごとく『文武の修行をしっかりと修得した者』で無いことは確かです。言い換えれば、「文武に励まず、ただ偏差値優先的なペーパーテストに合格することばかりを考えて勉強する」ようなタイプの人達と言えます。その意味では、まさに似非(えせ)リーダーと言わざるを得ません。
このような似非(えせ)リーダーが、いかに社会に弊害を及ぼすものであるかを、既述した第十代佐賀藩主・鍋島直正は危惧していたのです。即ち、
『文武の修行をしっかりと修得したものが官途に就くようにしなければ、たとえ生まれつき怜悧(さとい・かしこい)な者でも文武の練磨をしなければ、事理に疎くなり、国を治め民を安んじる道は言うに及ばず、自分の職責を果たそうとするときには、邪見や偏見に陥りやすく、実用の役には立たないことになる。文武に励まず、ただ官途に就くことばかり考えて競争するような風俗が起これば大変よろしくない結果となる』と。(沖田行司『藩校・私塾の思想と教育』日本武道館)。
因みに、ここで言う『文』とは、ペーパーテストに合格するための偏差値優先的な受験勉強の意ではなく、徳育と知育を磨くための漢籍を学ぶ意であり、『武』とは、娯楽レジャーたるスポーツの意ではなく、戦争をシュミレーションするその雛形たる武術の意であります。古今、洋の東西を問わず、心身と精神を鍛える武術は、「文」たる徳育と知育を結びつけるものとして認識されており、ために文武両道的思想とリーダー教育とは密接不可分の関係にあるのです。
ともあれ、真のリーダーが退場した後の、日中戦争・太平洋戦争における日本の未曽有の敗戦、高度経済成長の末路たるバブルの崩壊、そして失われた20年と謂われる平成日本の没落を招来させたものは、まさしく今日に至るまでの日本人の「リーダーとは何ぞや」という認識の欠落、その育成に関する無知・無関心であり、その結果たるリーダー的人材の乏しさ・枯渇であったと言わざるを得ません。
その意味において、前掲した第十代佐賀藩主・鍋島直正の言は、まさに今日の平成日本の没落を予告していたものとも言えます。
4、明治維新前における学問の目的は忘却され、新たな学問の目的が登場した。
既に述べたごとく、政治や軍事を担当するリーダーたる武士の教育目的は人間完成にあったわけですが、そもそも彼らは、身分制度のゆえに(農工商の領民のごとく)働かずして「メシが食えた」のであり、ために生まれながらにして人間性向上のための修練にいそしめるという好環境に置かれていました。
これに対して明治維新後の四民平等社会は、「働かざる者、食うべからず」が原則であり、かつての武士のごとく何人も生活基盤の保証など望むべくもなく、個々人の生活はあくまでも自己責任を以てすべしとする論理が明言されたのです。
四民平等社会の理念たる教育の機会均等・能力主義とはまさにそのためのものであり、つまるところ「メシが食えない」のはあくまでも当人の責任であり、当人の才覚の問題であると言うわけです。
このゆえに、立身出世を目指し、あるいは技術技能を身に付けるなどして個人の生活基盤を構築するための根本は、つまるところ、偏差値優先的学校教育の成績優秀者となり、個々人が目指すところのペーパーテストにとりあえず合格することである、ということになります。
言い換えれば、明治維新前における学問の目的は武士としての人間完成にありましが、明治維新後は、欧米列強諸国の物質文明を模倣するための言わば技術技能的人材を養成することに急なあまり、かつての武士のごとく人間としての鍛錬を忘れて、ひたすら先進諸国の技術技能を修得することを目的とするように変わったしまったということです。つまるところ、明治維新後の四民平等社会においては、学問は立身出世主義という功利的人生観を支える手段として、あるいは個人の生活基盤を構築するための手段と化したのであります。
かつての武士のごとく、人間としていくら立派であっても、ともかくペーパーテストに合格しなければ「メシが食えない」のであり、その意味での人間としての人格の練磨や文武両道の鍛錬など全くお呼びで無い、ということであります。
いわゆる教育ママに言わせると、『よその子の人格がとりわけ立派に育てられることは構わない、しかし、うちの子の人格は人間として普通であればそれで十分であり、とりわけ立派である必要はない。そんなことよりも偏差値を少しでも良くして学校の成績を上げることの方が先決問題であり、重要である』と。
教育の本質論から言えば、欧米列強諸国の物質文明を模倣する技術技能的人材を養成するにしても、その根本にどのような人格教育・人間教育を目指すのかが問われていることは論を俟ちません。理念なき教育は人心の荒廃など社会に様々な弊害と矛盾を招来するからである。
が、しかし、そのような人格教育・人間教育の軽視を危惧する声は、殖産興業を推進し近代国家の形を整えることを第一とする国家の教育基本方針によって常にかき消されてきました。言い換えれば、文明開化以降、今日に至るまでの日本の教育は、立身出世主義や技術万能主義思想の下、結果的に、単に小手先の器用なだけの視野の狭い言わば「技術屋」的人材を育成してきたと言うことであります。
ではありましたが、既に述べたごとく、明治時代においては、日本の中心的リーダーに明治維新前の武士道教育を受けた『国の宝』的人材がその余光・余慶として残存しておりましたので、上記のような「技術屋」的人材であっても十二分にその力を発揮させることができたわけであります。要するに、国家も組織も優秀な指導者さえいれば、その他は自ずから巧く行くものなのであります。その意味で明治時代は国家としてはまさに幸運の時代であったと言えます。
而(しか)るに、大正から昭和時代に入り、明治維新前の武士道教育を受けた真のリーダーたる人材が全て死に絶えた後は、ペーパーテストの成績優秀者たる似非(えせ)リーダー組が登場することにより、彼の未曽有の敗戦から平成日本の没落に至るまで日本の国家としての不幸が始まったわけであります。
まさに「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」<易経>の言を地で行くものであります。因みに「慶」は、吉事・善事、「殃」は、わざわい・神の咎めを受ける意です。
5、偏差値優先的学校教育が実社会では何の役にも立たない代物であるのに対し、孫子は、実社会で極めて有効適切に機能する優れものです。
一般的に、これまでの学問研究の殆んどが、物事を細分化して、分析し、理解するというやり方で進められて来ました。おのずから、偏差値優先的学校教育もこの範疇であることは論を俟ちません。そのゆえに、偏差値優先の学校教育は、「理解」させた内容を、いかに「暗記」させて、試験の「答案」に書かせるかを中心とする言わば知識教育であります。学校で教える「答え」を丸暗記すればそれで満点だというやり方であります。要するに「最初から答えを与えている」のが偏差値優先的学校教育の本質なのであります。
これに対して実社会の根本原理は周知のごとく「万物流転」「諸行無常」にあるゆえに、まさに解決すべき問題は、(偏差値優先的教育が対象とするが如くの過去にあるのではなく)おのずから「将に来たらん」とする「将来」にあることは論を俟ちません。これこそが兵法の真骨頂なのであります。
孫子が、『敵、衆にして整い将に来たらんとす。之を待つこと如何。』<第十一篇 九地>と論ずる所以であります。
言い換えれば、実社会においては、学校で教える答えがそのまま通用し得るような問題がどれだけあるだろうか、ということであります。否、むしろ、「最初から答えを与えられる」ことなど有り得ようはずも無く、そもそも「初めから答えが分らない」のが実社会の問題と言わざるを得ません。
つまるところ、偏差値優先的学校教育は真の教育ではない、真の教育とは、実社会で問題に遭遇したとき、自分で答えを出せる脳力を身に付けることであると言うことであります。視点を変えて言えば、そもそも実社会における問題解決は、物事を「細分化・分析・理解」するという側面と、それらを「組み合せ・秩序立て・総合する」という側面の二つで成り立っているのであります。この両面が一体的に機能して初めてスムーズな問題解決が可能となるのでありますが、偏差値優先的学校教育には、とりわけ後者の側面が欠落していると言うことであります。ここに学校成績優秀者たるリーダーの陥り勝ちな罠(わな)があると言わざるを得ません。
この「組み合せ・秩序立て・総合する」という側面を向上させるためには、論理必然的に、万物の霊長たる人間に与えられた特長たる脳力(知性)を総合的に磨くという方向性が要求されます。そのためには、(偏差値優先的学校教育たる知識教育の他に)いわゆる人間学的素養を磨く思考教育と、心身と精神を鍛える武術(体育)教育とが必要となります。
とりわけ、孫子は、戦争という極めて巨大かつ激烈な事象を高度な抽象性をもってコンパクトに総括する思想・理論の体系であります。これを真摯に学び、日用の学として使いこなすことは、日々の戦いの中で思考力を磨き、かつ精神を鍛える最適のテキストであると断言できます。
6、リーダー不在の平成日本の没落に我々はいかに処すべきか。
(一)真のリーダー育成について
①リーダーを選抜するためのペーパーテスト方式は必ずしも悪くはありません。修正すべきはペーパーテストで一応、リーダー層として選抜された人材をさらに「リーダー・ラインの長」向きの人と、「スタッフ・研究職」の向きの人とに厳然と峻別することであります。
その上で、トップの資質を有すると認められた人には、かつての武士道教育のごとく、人格形成や道徳性の涵養、指導者としての責任の取り方など、言わば徳育(思考力と判断力)と知育(主として人間学に関する知識)の教育の徹底を図り、併せて心身と精神を鍛える体育たる「武術」を修行させることであります。
②リーダーは国民みんなで育てるという姿勢が何よりも肝要であります。そのためにはリーダー論として最適な孫子を学ぶことであります。が、しかし、それ以前の問題として、先の師走の衆議院議員選挙に象徴されるがごとく投票率6割弱という有権者の政治的無関心さを是正する必要があります。
民主主義のシステムでは、どのような理由であれ投票しないと言う行為は、つまるところ、一つ意思表示と見なされるのであり、自ずからその結果責任は投票しない有権者そのものに返ってくるのです。
(二)社会人が真に学ぶべき学問は孫子の兵法である。
①いわゆる偏差値優先教育たる学校時代においては、まさにネコも杓子も学業成績優秀者を目指して勉強すべきであります。好むと好まざるとに関わらず、まずその競争を勝ち抜くことが衆人周知の日本社会のシステだからであります。
一方、暗黙の社会的認識としては、(そもそもは不本意であるが)やはり学校時代は偏差値優先教育でも仕方がない。が、しかし、「メシが食える」社会人になったらやはりかつての武士道教育のごとく、徳育(思考力と判断力)と知育(技術技能的知識の他に人間学に関する知識)と、心身と精神を鍛える体育たる「武術」を三位一体のものとしていそしむことが望ましい意と解されます。
②とりわけ、今日の日本に最も欠落しているものはまさに孫子の論ずる「兵法的思考力」であり、「リーダー論」「政治論」であると言っても過言ではありません。偏差値優先の学校時代にいくら孫子を学んでも、(偏差値を上げるという意味では)何の役にも立ちませが、社会人となった以上、真に役立つ学問は孫子であると断言ができます。
いやしくも社会人たる者、混迷する平成日本を生き抜くために、かつてのサムライのごとく、戦いのバイブルにして基本書たる孫子を学んで兵法的思考力を磨き、併せて(孫子は現状変革の理論ゆえに)心身と精神を鍛える武術(スポーツではない)を真摯に学び、その活用を図ることを目指すべきと考えます。
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とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
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