6、<第二篇 作戦> 『敵を殺す者は怒りなり』の通説的解釈を斬る
一、孫子兵法を学ぶ本当の意味での面白さとは
孫子の原文は、意外なことに僅か六千余文字であり、四百字詰め原稿用紙にすると15枚程度に過ぎません(因みに箴言集たる老子は五千余文字です)。反面、その説くところは、人間社会における最も激烈にしてマクロな事象たる戦争を総括するものゆえに、その一言一句は、極めて簡潔ではありますが、幽玄にして含蓄があり、しかも難解であるという特色があります。
言い換えれば、個々の篇におけるまさに「判じ物」の如き難解な語句の数々、あるいは前後の文意が通じない、もしくは十三篇全体としての各篇の体系的繋がりが不明であるなど、種々、問題のある箇所が散見されるのが孫子です。このゆえに、読者をして、(何か孫子の真意と異なっているようで)どうも釈然としない、何度読んでも疑念が生じてくるなどの焦燥感を募らせる一方、然(しか)らば、孫子の真意は一体どこにあるのか、是非ともそれを知りたいという強い探究心を抱かせるのです。
このゆえに、孫子注釈者の嚆矢たる三国志の英雄・魏の曹操以来、今日に至るまで、(時と空間を超えて)まさに一国を代表する知性とでも称えられるべき人々によって、「我ひとり孫子の心を解したり」とばかりに数多(あまた)の註釈が行われて来たのであります。
因みに、我が国の代表的注釈者としては、林羅山・北条氏長・山鹿素行・荻生徂徠・新井白石・吉田松陰などの錚々たる人物が知られています。
ともあれ、孫子を学ぶ本当の意味での面白さは、そのような古来の註釈を踏まえつつ、最古のテキストたる「竹簡孫子」、孫子兵法の実践論的体系たる「脳力開発」「古伝武術」などの観点から、それらの論点に係わる矛盾点を分析し、整理して自分の頭で多角度的に比較考慮し、最も合理的な解釈を導き出すところにあります。
もとより、その場合の判断基準、もしくは評価の尺度とすべきものは、孫子十三篇の体系的な繋がりであり、そこに首尾一貫して流れる孫子の兵法的思想であることは論を俟ちません。
ともあれ、数多(あまた)ある孫子の論点の中から、ここでは、とりわけ誤解され勝ちな『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>について取り上げます。
二、『敵を殺す者は怒りなり』に対する一般的な解釈への疑問
(敢て出典は明示しませんが)一般的に、この言は次の如くに解されています。
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1、兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない。
2、兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は、何といっても戦意である。
3、敵兵を殺すのは、憤怒の感情(奮い立った気勢によるもの)からである
4、我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし。
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つまり、「怒」は、「憤怒の感情」「敵愾心」「戦意」の意、もしくはそれらを激しく奮い立たせる意と解され、一般的にはこれがいわゆる通説的な解釈であるとされております。一面的に、あるいは表面的に見れば、はたまた「大衆に理解され易い」という観点に立てば、確かに分かり易く、いかにも尤もらしい解釈ではあります。
が、しかし、この『怒り』という感情は、まさに「感情の動物たる人間」にとってはその対処の巧拙いかんが極めて重大な結果を招来するものゆえに、(兵書としては)とりわけ慎重な態度で解釈すべきものであることは論を俟ちません。
(1)ことわざに曰く「短気は損気」もしくは「短気は身を滅ぼす腹切り刀」
人間もしくは人間社会の破壊をもたらすものはまさにこの『怒り』の感情に他なりません。他人はもとよりのこと、自分をも破壊する危険な性質を有するものです。その意味で『怒り』の感情は、(常に冷静な判断と主動権確保が求められる)兵法と密接不可分の関係にあります。つまり、『怒り』の感情をいかにコントロールするかは、まさに兵法の本質的問題と言えます。軍書に曰く『善く戦う者は怒らず』と。
「怒り」の感情は言わば凶器ゆえにその暴発は大いなる損失(危険)を招来する、と話したところ、ある五十歳代の知人は、『確かに改めて考えて見るとまさにその通りです。今、過去を振り返るに、思わず知らず「怒り」の感情を爆発させたがゆえに、どれだけの損をして来たことか…、実に悔しい』としみじみ述懐されておりました。
一般的に人々は、平素の社会生活において、この「怒り」の感情を思うがままに爆発させたらどうなるのかは直感的に分かっているがゆえに、「怒り」の感情をグッと堪えているのです。もとより、個々人の性格やその時々の状況は様々ですので、いわゆるガス抜き的な意味での「怒り」の爆発は当然あります。が、しかし、それはあくまでも部分・局面的なものであり、全体・本質的な基本方針は、「怒り」を我慢することにあると言わざるを得ません。
このことは、ことのいかん、その広狭大小を問わず(感情の動物たる人間にとって)常に心掛けるべき要訣であります。そのゆえにこそ、孫子における通説的な『怒り』の解釈が、上記のごとき一面的、もしくは表面的な見方、もしくは単細胞的な理解で足りるのか否か、甚だ疑問と言わざるを得ません。
もとより、「事は戦争だから」との声も聞こえて来そうです。が、しかし、それは最前線で戦う士卒の場合には該当しても、全軍を統率するリーダーたる将軍の場合には当て嵌まらない、と言わざるを得ません。況んや、将帥論(リーダーの書)たる孫子においてをや。
(2)そもそも『拙速』の趣旨にそぐわない行為であり戦争の泥沼化を招来する
<第二篇 作戦>のメインテーマたる『拙速』、即ち、勝利の度合いは拙(不完全)であっても良いから、速やかに戦争目的を達成すべし(これが速の意)、とする立場から見て明らかに矛盾が生じて来ます。
つまり、いくら敵とは言え「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、軍人のみならず民衆までも不必要に無意味な殺戮を行えば、敵は(我の真の狙いたる)早期の停戦・和平に応ずるどころか益々、依怙地になって(眼には眼を、歯には歯と)敵愾心・憎しみを募らせ、挙国一致して徹底抗戦の意志を固めること必定であります。これでは『拙速』など望むべくもなく、戦争の泥沼化は避けられません。
(3)通説的な解釈では余りに唐突過ぎて、前後の文意が繋がらない
この『敵を殺す者は怒りなり』の前文においては『糧は敵に因る(代金を支払って敵国内で食糧を調達する意)』、後文においては『敵に取るの利は貨なり(敵から奪って我の利とするものは敵の戦闘上の必要物資である意)』とあるのに、いきなりここで「敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし」の解釈ではいかにも唐突であり、前後の文との繋がりも意味不明となります。
(4)孫子の根本思想たる『怒りは敵だ』と明らかに矛盾する。
通説的解釈は、十三篇を首尾一貫する孫子の「怒りは敵だ」「怒る者は強者に非ず」「智慧ある者は怒らない」とする根本思想とは明らかに矛盾するものと言わざるを得ません。即ち、『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍りを以て戦いを致す可からず』<第十二篇 火攻>と。
ともあれ、いわゆる通説的解釈は、孫子の言を、そのまま文字通りに解しただけのものであり、肝心要の「そもそも兵法的思想とは何か」、はたまた「漢文とはいかなる性質の文体なのか」などの極めて本質的な思考が完全に欠落していると言わざるを得ません。
譬えて言えば、春になって花が咲いた。それを見て「花も春の訪れを祝福してくれている。美しい眺めだ、実に嬉しい」などと能天気にハシャイでいるようなものであります。言い換えれば、確かにそのような側面もあるが、花が咲くのはあくまでもその植物の生殖目的である、という本質には思いを致さない、が如しです。
幼稚にしてお粗末な解釈をいかにも尤もらしく論じておきながら、その整合性いかんについては疑問すらも感じないのです。まさに傲慢不遜の極みであります。
三、しからば『敵を殺す者は怒りなり』はいかに解されるべきか。
(1)なぜ孫子兵法はキチンと理解し、生涯、学び続ける必要があるのか。
そもそも孫子兵法は日用の実践的指針として現実に使いこなすものゆえに、その解釈においては真に自分が納得できるものでなければなりません。そのためには、いかなる権威のものであろうとも、他人の解釈は鵜呑みにしないこと、まず「正しく疑うことが肝要です。
その上で、自分の頭で考え、自分で検証し確認すること、その結果、本当に納得したものは、もはやそれは他人の見解ではなく、まさに自分が見い出したごとくに確信し、己のものとして実践することができます。
とは言え、それはあくまでもその時点での自己の力量レベルのものでありますから、その理解のレベルをも常に検証し確認する姿勢もまた必要です。もしそこに理解の浅さ、思い込み、妄想、誤解、錯覚の類が確認されれば、直ちに修正し最善なものを理解する必要があります。まさに「深いかな、孫子」であります。
孫子を単に、一読、二読、もしくは三読、四読した程度で「我ひとり孫子の心を解したり」などと妄想するのは浅知恵の極みと言わざるを得ません。上記のごとく、個人の兵法は、あくまでも個人の実践(自助努力)で積み上げるべきものであり、まさに「天は自ら助くる者を助く」であります。
ともあれ、そのようにして確信を得、身に付けた見解は(もはや他人の借り物ではなく)自己の血肉と化しているゆえに、真に役立つ思想として自己の生涯を通じての宝となります。これが、例えば『敵を殺す者は怒りなり』の真意をキチンと理解すべき所以(ゆえん)であります。
(2)物事には必ず両面性がある。片面だけ見ていては孫子の真実に迫れない。
そもそも、「兵法とは、行き詰まらないことを以てその一大事とする」ものであり、「最悪の場合、どう対処するか」を論ずるものであります。逆に言えば、「分り切った、当たり前のことは論じない」ということです。
加えて言えば、古来、漢文の文体は、極めて簡潔で省略が多く必要最小限の文字だけを記す傾向が強いことに特徴があります。逆に言えば、そもそも漢文には「分り切った、当たり前のこと」を敢て記す余地など初めから無いということです。況んや、マクロな現象たる戦争を総括し、国家国民の死生を論ずる孫子においてをや、です。
つまり、メモ的な省略体が孫子なのであり、そこには必要最小限の文字だけしか記されていない、と言うことです。
その単なるメモを(メモだとは思わずに)額面通り表面的に直訳していると根本的な誤りを犯すことになります。孫子の理解には何よりも本質を洞察する高度な抽象的能力が要求される所以(ゆえん)であります。それらの観点から、通説的解釈を改めて吟味するといかにも間抜けな感が否めません。「何だよ、この程度のことが孫子なのかよ」と。
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1、兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない。
2、兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は、何といっても戦意である。
3、敵兵を殺すのは、憤怒の感情(奮い立った気勢によるもの)からである
4、我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし。
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(3)兵法とは生死を論ずものであり、上品な文学を論ずるものではない
そもそも兵法とは、文字通り(将に来たらんとする)将来の事象に対していかに処するかを論ずるものゆえに、その解釈においては広範な見識と百戦錬磨の「海に千年、山に千年」的な批判能力が要求されます。
つまり、兵法とは、いわゆる学者先生が世俗を離れた研究室で、花を活けたり、お茶を立てたりするような上品かつ平和な気分で文学的に解すべきものではなく、ましてや、素直で従順ではあるが、海千山千的な強烈な批判能力とはお門違いの、いわゆる受験エリート的な優等生タイプの発想で解釈すべきものではありません。
が、しかし、なぜか日本ではこのような学者先生の孫子解釈が最高の権威とされているようであります。やたらと(テレビに出ているから偉いとか、金持ちだから尊敬できるとかの)レッテルを貼りたがり、お上と権威に平伏(ひれふ)すことが大好きな日本人の民族的欠陥の面目躍如たるものがあります。
かつて陸軍大学校の一期生をトップで卒業し、その能吏ぶりゆえに「カミソリ東条」の異名をとった彼の東条英機が、本業たる戦争においても(学業成績と同じように)カミソリ的な切れ味を見せたのかと言えば、決してそうではないことを歴史は示しております。
まさに、戦争にも比すべき今回の福島第一原発事故において、国の原発行政に関わるエリート集団がその余りの愚かしさを満天下に晒したのは、偏に広範な見識と百戦錬磨の海千山千的な批判能力が欠落していたゆえであります。「想定外の事故」との甘ったれた認識はそのことを雄弁に物語っています。今回の人災は、ただ小賢しいだけで、肝心ところで役には立たない、いわゆる受験エリート的優等生タイプの貧困な発想力に起因するものと言わざるを得ません。
ともあれ、ここで言いたいことは、こと戦争においては、「敵愾心を植えつけなければならない」とか、「兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は何といっても戦意である」などの言わば「戦術レベル」の説明は、まさに当たり前のことあり、メモ的な省略体たる漢文に敢て記すに足るものではない、と言うことです。
むしろここでは、『怒り』という感情のもう一つの側面、即ち「戦略的レベル」について考察することが賢明であります。とりわけ<第二篇 作戦>は孫子兵法の言わば総論部に該当するものゆえに、基本的にここでは戦略的思想たるの根本を論じていると解すべきです。
ここで戦略とは、(脳力開発的に言えば)目的性・方向性といった根本レベルの考えの中で原則性(容易にゆずらない、容易に変更しない水準のもの)を持つものの意と解します。戦略に入らないものは戦術ということになります。言い換えれば、戦略の方は、「内なる意志を貫いてゆく」のであり、戦術の方は、「外に合わせていく」のであります。
つまり、ここでは、(彼はもとより我をも破壊するものゆえに)極めて慎重な取扱いが求められる『怒り』の感情は、戦略的観点からどのように位置付けるべきなのか、ということであります。その判断基準は、どのような考え方が「我にとって利となるか」、どのような考え方が「我にとって利とならないか」ということであります。
逆に言えば、通説的『怒り』の感情の解釈は、あくまでも戦術的なレベルのものであり、(戦略レベルのごとく)何が何でも絶対的にそうしなければならないという類のものでないということです。即ち、状況によっては特別に敵愾心を鼓舞する必要もありましょうが、通常、敵愾心・戦意・士気というものは敵を目前にすれば自ずから鼓舞されるものであります。
殺すか殺されるかの局面に際会すれば、誰でも「武者震い」を禁じ得ないのはまさにその証左です。孫子が『死地』<第十一篇 九地>を論ずる所以(ゆえん)です。
因みに言えば、孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>は、まさに戦略的レベル(内なる意志を貫いてゆく)ものであり、巷間、謂われている「拙速」、即ち『兵の情は速やかなるを主とし』<第十一篇 九地>の意は、戦術レベル(外に合わせていく)ものということになります。つまり後者は、状況よっては、速くやる方が効果的な場合もあれば、状況によっては、遅くやる方が効果的な場合もある、ということです。
後者の典型例が、一般に謂われている「拙速を貴ぶ」であり、その逆の意となる「拙速に過ぎる」であります。つまり、戦術レベルは臨機応変・状況即応を旨としますので、状況によってその対応が変わるということです。言い換えれば、「拙速を貴ぶ」も「拙速に過ぎる」も共に正しいと言うことであり、世間で良く謂われているような「拙速の解釈としてはどちらが正しいのか」などの議論にはならないということです。
(4)まとめ
要するに、通説的解釈のお粗末さは、兵法にとって最重要の課題たる『怒り』の感情を表面的にいかにも軽く見ているということに尽きます。ゆえに、孫子は「春になって花が咲いた。美しい眺めだ。花も春の訪れを祝福してくれているのか」などの如き上品な文学的解釈では解けない、と言うのであります。そこには本質を洞察する高度な抽象的能力が要求されるがゆえに、孫子を学ぶことは即ち、兵法的思考力の鍛錬となるのであります。
そのゆえに、ここでは、『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>とは、次のように解するのが適当と考えます。
即ち、(将軍たる者は)ただ怒りの感情の趨くままに、無意味に敵国の軍人や無辜(むこ)の民衆を殺戮してはならない。それは将軍個人の単なる憂さ晴らしに過ぎない。感情のままに「怒り」を爆発させても、決して自国の利益に結びつかない。むしろ、一つ間違えれば、敗軍の基(もとい)ともなり兼ねない極めて危険な行為である。ゆえに、将軍たる者、厳にこれを慎むべきであり、「本当の意味で我の利となるものは何か」を常に思念工夫すべし、の意と解されます。軍書に曰く『善く戦う者は怒らず』と。
斯(か)く解すれば、<第二篇 作戦>の全文は首尾一貫して繋がり、かつ『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍りを以て戦いを致す可からず』<第十二篇 火攻>の体系的根本思想とも合致するのであります。
因みに、孫子の再来とも称される毛沢東は、次のような趣旨のことを論じています。
『決定的な敵対分子は、断固として鎮圧しなければならない。そうしなければ自己保全ができないからだ。だが、決して余りに多くの人を殺してはならない。強制的に参加させられている者や、味方になりそうな者は大量に獲得して我が軍務に服させるべであり、その他はすべて釈放すべきである。もし彼らが再び捕らえられても、同じようにねんごろに、穏やかな態度でこれを取扱い、再び釈放すべきである。これは敵陣営を孤立させる上で非常に有効である』と。
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孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
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- 2015年01月07日
- 22:【孫子 一問一答】シリーズ 第四回の「立ち読み」のご案内
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- 21:【孫子 一問一答】シリーズ 第三回の「立ち読み」のご案内
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